2006年07月08日

ロジスティック(1)/青木

パート先のテレビでNHKを見ていたら、「第5次医療法改正」と「障害者自立支援法」の問題点に関する特集をやっていました。番組の結論だけ言うと、この先「医療難民」、あるいはそれに類したひとが増えるだろう、ということです。つまり、経済上ないし制度上の制約で、病院での医療やリハビリを受けたくても受けられないひと、また必要に応じた介護サービスを受けたくても受けられないひとが増えてゆく、ということです。ぼくは自分が病気がちだから、とても他人事とは思えません。去年ぼくは一時期本当に無一文になって、医者にも行けなくて、2週間足らずの間ですが、いつも欠かさず服用しているアレルギーの薬を切らしたのですよ。別に強い薬じゃないんですけど、ラストの5日間くらいは結構きつかったなあ。

そこで、気になりついでに、当の「障害者自立支援法」とやらをダウンロードして読んでみたわけです。まず第三条を見てみると、こうあります。「すべての国民は、その障害の有無にかかわらず、障害者等がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営めるような地域社会の実現に協力するよう努めなければならない」。なるほど、理念はわかります。でもその後を読むと(第二十九条など。長い文面なのでここでははしょりますが、第二十九条だけをコメント欄に引用しておきます)、障害者の経済的な自己負担を増やしたいだけじゃないのか、という気がしてきます。障害者とその家族のフトコロに狙いを定めた法律なんじゃないかな、これは。他にもさまざまな問題がある「障害者自立支援法」に関しては、以下のサイトを参照して下さい。リンク先で支援法の中身も読めます。

障害者自立支援法?、最初っからやり直すべし!
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm

法律がかかげる理念と、その法律が具体化する現実とのギャップ。その理由はどこにあるのでしょうか。一言で言えば、生活者、この社会で生きている人間への想像力が、今の政治には欠落している、あるいは想像力が変質している、ということではなかろうか。あともうひとつ、日本の政治が言葉を大事にしてこなかった、ということもあります。

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2006年06月19日

過剰適応(5)/青木

さて、教訓2:「日本の(大学)社会は、基本的にコネと人脈を中心にまわっている」についてですが、これを説明するには、なぜぼくが大学に残らなかったかを語るといいかもしれません。博士論文まで書いてなんで大学に残らなかったかと不思議がられることはよくあるのですが、答えはカンタン、ぼくには非常勤講師の口ひとつなかったからです。ただしこの事態は、早稲田の大学院内部でもやや例外的なことかもしれないので、あくまでもぼく個人のケースとしてお読み下さい。

大学内部では常識でありながら、大学の外ではあまり知られていないことに、非常勤講師の雇用の問題があります。非常勤のコマというのは、基本的にほぼすべてコネでまわっています。知り合いから知り合いへと受け継がれるわけです。具体的に言うと、指導教官が担当の院生のためにコマを確保したり、先輩から後輩に受け継がれたりするわけです。ぼくもドクター・コースの終り頃は教員公募の採用告知などよく見てましたが、哲学・思想関係での非常勤講師の公募というのは一回しか見たことありません。応募しましたけど、落ちました。
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2006年06月15日

過剰適応(4)/青木

なんだかちょっと「過剰適応」というテーマからは脱線気味と思われるかもしれませんが、院生時代のぼくの身の上話を続けます。この先、だんだんとグチっぽい内容になっていっちゃうんですけど、本来の意図はグチではないので、その点はどうか了解して下さい。

まず教訓1:「大学院生活において、病気、特に長患いをすると大変な目にあう」についてですが、これは主に経済的なことです。といっても、医療費ではないのですよ。学生保健に入っていれば、医療費はかなりの程度戻ってきます。問題なのは生活費です。大半の院生の経済生活は、アルバイトやパートの収入と奨学金で成り立っています。奨学金は主に旧育英会、現在の独立行政法人「日本学生支援機構」から「貸与」されます。そう、あくまで「貸与」、いつかは返済しないといけないお金です。結構、いい金額が振り込まれます。ぼくの時代で文系の修士課程では月に7万弱、博士後期課程で月に10万強だったと記憶しています(さっきから奨学生手帳を探しているのに見つからないので、正確じゃないかもしれません)。ただし、在籍期間全部にわたってというわけではなく、最低年限だけ振り込まれます。つまり、修士課程なら2年間、博士後期課程なら3年間だけ支給されます。

ぼくの場合、奨学金の使い道はまず学費等の支払いでした。これで2、3ヶ月分くらいは消えてしまいます。あとは本の購入や学会費、アルバイトだけでは足りない生活費などです。それでも奨学金とアルバイトを足せば、贅沢さえしなければ、十分暮らして行けました。病気をするまでは。
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2006年06月13日

過剰適応(3)/青木

どうも梅雨入り前の時期から毎年、心理的に軽い「バテ」に襲われます。気圧の変化が原因であろう、というのがぼくなりの仮説。でも確証がありません。温度や湿度と違って、気圧は「おっ、今1000ヘクトパスカルくらいだな」とか、体感としてわかんないですからね。今週からはまた元気出していこうと思ってます。

現在出ている「群像」7月号の「Review Films」のコーナーで、作家の雨宮処凛さんが4月30日の「自由と生存のメーデー」デモへの弾圧のこと、さらには「労働」をめぐる近年の現実について記しています(「プレカリアートと靖国」というタイトルの文章です)。さっすが、感度がいいですね、雨宮さん。4月30日のデモに関しては、ぼくが確認したかぎりでは、「SPA!」の6月6日号にも写真入りで報道されていました。でも、日本の社会の「現在」を露骨に象徴するこの事件は、本来もっと大きく取り上げられるべきです。大手マスコミは、また「ばっくれ」かよ。デモに対する弾圧の経緯に関しては、このブログ内の池田さんの記事をどうか参考にして下さい。

さて今回からは、ぼくの大学院生時代の記憶をほじくり返しながら、過剰適応の問題を具体的に考えようと思うのですが、大学の外からだと院生の生活って見えにくいかもしれません。あくまで早稲田の文学研究科、それもぼくが在籍していた当時、つまり今から5年以上前の話に限定しますが、簡単に大学院の制度をお話します。

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2006年06月04日

過剰適応(2)/青木

前回はハンガリーの作家ケルテース・イムレの小説『運命ではなく』を取り上げて、過剰適応の話を進めました。ハンガリーの、それもナチス占領下時代の話となると、「今の日本とは関係ないじゃん」と思われるかもしれないけど、ケルテースと似た観点から過剰適応の問題を扱っている作家は日本にも、それも若い世代にいるのです。中村文則さんがそうです。中村さんの作品の主人公の多くは、養子体験を背負っています。そして、よく読むとわかるのですが、この主人公たちは、ひとまず本能的に環境に順応しようとする過剰適応の徴候を見事に示しています。

ケルテースと中村文則さんの文体を簡単に比較してみましょう。訳者の岩崎悦子さんが指摘していることですが、『運命ではなく』では「……と思われる」「……のように見える」といった挿入的な文章がよく出てきます。中村文則さんのデビュー作『銃』の中には、「……よくわからなかった」という終り方をする文章がたくさん出てきます。どちらも自分で自分の欲望や意志を確認しなければすまない心のあり様を表していると思えますが、「……よくわからなかった」という分だけ、中村さんの主人公のほうが重症と言えるかもしれません。基本的に中村文則さんの作品の主人公たちは、自分の気分や欲求でさえ自分で所有しているという実感を抱いてはいません。適応のために心のエネルギーの大半を使い果たしているのです。そのような状態からいかにして自分の生きる権利を作り出すか、ここに中村さんの作品の大きなモチーフのひとつがあります。

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2006年06月03日

事件の経緯についての資料/池田

12月20日早大文学部における不当逮捕を許さない
 ← 抗議文の掲載ページ。

事件の経緯
 ← 当該団体、つまり逮捕された青年が所属している団体による、逮捕時件にいたるまでの経緯が掲載。

早稲田大学ビラ撒き逮捕事件、教員7名「公開質問状」
 ← 早稲田大学のスタッフである、岡山茂氏、藤本一勇氏、谷昌親氏、斎藤純一氏、岩田駿一氏、原章二氏、猪股正廣氏による公開質問状。文学部からの参加はデリダの研究者として知られている藤本氏のみ。

学生・教職員のみなさまへ
 ← 早稲田大学第一文学部、第二文学部、文学研究科名義による説明。私人逮捕についてはまったく触れられていない。



以下、それぞれのサイトおよび新聞記事から、事件の経緯について述べられている部分を引用する。


■朝日新聞朝刊12月29日■
■警視庁の調べなどによると、男性は20日昼、東京都新宿区の文学部がある戸山キャンパスで、学生会館移転問題に絡むビラをまいた。学校側がキャンパスの外に出るように求めたが従わなかったため身柄確保(私人による逮捕)をし、警察に通報して引き渡した。調べに対し、男性は黙秘しているという。


■抗議文からの引用■
■12月20日昼ごろ、早稲田大学文学部キャンパス内において、早大再編について考え、反対する行動告知のビラをまいていた一人の人間が、突然7,8名の文学部教職員に取り囲まれて、そのまま警備員詰所に軟禁され、その後、その教員らが呼び入れた牛込警察署員によって「建造物不法侵入」の容疑で逮捕されてしまいました。


■「事実の経緯」からの引用■
■12月20日の昼ごろ、東京都新宿区の早稲田大学文学部キャンパスで、ある青年がビラ撒きをしようとしていました。ビラの中身は、2001年7月31日の早大キャンパス内サークル部室強制撤去以降行われている、早大当局による言論弾圧、集会破壊に抗議する行動を告知するためのものです。学内に入りふと気がつくと、彼はどこからともなく現れた7〜8名の文学部教員に取り囲まれていました。彼はそのまま警備員詰所に連行、軟禁された上、第二文学部教務担当教務主任らが導入した牛込警察署の警察官によって"建造物侵入"の容疑で逮捕されてしまったのです。


■公開質問状からの引用■
■12月20日に早稲田大学文学部構内で、地下部室撤去と学生会館移転問題に関わるビラをまこうとした男性が逮捕されました。朝日新聞(12月29日朝刊)には、「学校側がキャンパスの外に出るように求めたが従わなかったため身柄確保(私人による逮捕)をし、警察に通報して引き渡した」と書かれています。


■「学生・教職員のみなさまへ」からの引用■
■1) 2005年12月以降、早稲田大学構内への立ち入り禁止の仮処分(20 01年7月31日東京地方裁判所決定)を受けている者が文学部正門脇に 立ち、それと共同して文学部構内でビラを配布する者が出没した。そこで、 立ち入り禁止者の動向を注視していたところ、12月15日に、ビラを配 布している者が、教員の一人に対し、その家族の安全に関することで脅迫 を行った。
■2) この事件について、文学学術院執行部で協議した結果、脅迫に関しては所 轄警察署に通報し、文学部正門前の警備を要請した。当該教員のみならず、 その家族の安全をも脅かす言動であり、放置できないと判断したからであ る。なおこの件は、12月20日の教授会において報告、了承されている。
■3) 12月20日の正午過ぎ、15日に脅迫を行った者が、文学部構内スロー プ上に立て看板を置き、ビラを配布し始めた。学生証の提示を求めたが応 じないため、構内からの立ち退きを求め、いったんは退去させた。しかし、 再度構内に侵入し活動を始めた。そこで、繰り返し立ち退きを求めたが、 応じなかったために、警察に通報した。
■ 4)脅迫を行った者は、早稲田大学とは全く関係のない人物であることが判明 した。

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2006年05月30日

過剰適応(1)/青木

文芸評論家という肩書きがつく以上、日本の現代文学をガツガツと読まなきゃいけないんですけど、最近はひまになるとつい海外の翻訳ものに手が出ます。「仕事」という意識がまったく入らない分、読書が純粋に楽しめるからだろうか。こういうあたり、ぼくは今一つプロに徹し切れません。

わりと最近に読んだ本の中で感銘深かったもの、というか今に至るまでずっと考えさせられている一冊に、ケルテース・イムレ(1929-)というハンガリーの作家が書いた『運命ではなく』(岩崎悦子訳、国書刊行会)という小説があります。ハンガリーでは日本と同じで姓が先に来るので、ケルテースが姓、イムレが名です。『運命ではなく』の内容はと言えば、もう実録ナチス収容所ものと言っていいでしょう。ケルテース自身が少年期に収容されたアウシュヴィッツやブーヘンヴァルトといった強制あるいは労働収容所での体験を、後から回想的にいろいろ加味して書くという仕方ではなく、できるだけ当時の少年の感性をそのまま再現しながら記録した小説です。ケルテースはあるインタビューの中で「ホロコースト文学の大半が、体験時には分からなかったはずの事実まで、分かっていたように扱っているのに違和感を感じていた」(あとがき、285頁)と語っています。ぼくは最初この小説を、ナチスの非道さを生々しく暴くドキュメンタリー・タッチのヒューマニスティックな作品だと半ば予想して読み始めました。

確かに生々しくはありました。ケルテースの記憶力は大したもので、収容所の細かい事実までよく覚えています。でも普通の意味でヒューマニスティックというのとは、ちょっと違いました。ラスト間際の一文が象徴的です。「そうだ、いずれ次の機会に誰かに質問されたら、そのこと、強制収容所における幸せについて、話す必要がある」(278頁)。「強制収容所における幸せ」、あらあら、ショッキングな言葉でした。どういう意味なのでしょう。ひとまず少年の言葉を聞いてみましょう。

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2006年05月25日

ビラまき青年逮捕事件に対する池田のスタンス(2)

■前回のエントリーで、昨年末におきた早大ビラまき青年逮捕事件に対しては、左翼的なスタンスも批評的なスタンスもとらないことと、その理由を述べた。ではこの事件に対して、私はどのような態度を選択するのか。

□当面それを「当事者主義」と名づけることにする。前回も少しふれたが、人間は様々なトピックにおける「当事者」として生活している。あるトピックにおいて革新的でも、べつのトピックにおいては保守的かもしれないという話だ。そう考えると、人間は無数のトピックにおいて、その場所の「当事者」としての態度を選択しているということになる。

□それをふまえて、検証、疑問あるいは抗議というような言説の射程を、当事者としての私がみえている範囲に削り込んでいくという作業を、やってみたいと思う。



■法律の当事者■
□まず私は、日本国の法律にしたがい、日本国で生活を営んでいる。つまり法律というトピックにおいては、私はつねに当事者である。
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2006年05月21日

学問から解き放たれる権力(3)/青木

(前々回、前回から引き続いて、前田雅英氏の刑法理論を論じています。)

それにしても、まがりなりにも刑法「学者」である前田氏が、なぜ刑法学そのものを非学問化するような立場に立とうとするのでしょうか。自分で自分の食い扶持を減らしてるようなものではないか。そういう素朴な疑問がわきます。ここを考えるためには、彼が「社会」をどう見ているかを論じなければなりません。前田氏は刑法の運用を「国民の意識」(『刑法から日本をみる』13頁)に合わせていくという点をいつも強調します。ところで、このひとの本の中にはやたらと「国民の規範意識」とか「国民の常識」といった言葉が出てくるのですが、その実体はさっぱりわかりません。それどころか、「……少年の犯罪を増加させてきたのは『社会』であり」(『少年犯罪』はしがき)と言い、戦後の社会の流れを犯罪化の歴史として批判しているのだから、余計に変な感じがします。

しかし、それもそのはず。前田氏は別に「国民の意識」とやらをきちんと歴史を吟味して考えているわけではありません。少なくともぼくの読んだ本の中には、そういう努力の跡はうかがえません。むしろ、治安の観点から(けっして厳密に法の観点からではありません)彼が要求する「規範」に従うよう、曖昧で同質的な「国民の意識」なる「気分」を作り上げようとしていることが、特に『少年犯罪』『日本の治安は再生できるか』という2冊の本からは感じられます。イメージの操作が露骨なのです。

そして、実はここにこそ彼の首尾一貫性があると言えます。簡単に言っちゃえば、前田氏は刑法学者として法律実務のチェック機能を果たすというカウンター・パワーである役割をはるかに超えて、むしろ積極的に「国民の意識」とやらを作り出し操作すること、そうすることで統治的な権力を間接・直接に行使することを目指しているのです。そこがわかれば、上記の2冊の著作の狙いもわかります。サブリミナル効果でも狙っているのかと思われるような、時に意味不明ですらある写真の挿入は、この2冊の本が学問のための著作ではなく、読者の意識をコントロールするために書かれた本であることを証しています。内容はともかく、その編集のテクニックは、巷で配られている宗教パンフレットと同じたぐいのものです。統計にこだわり続けるところは、ひょっとしたら初期の「違法性は客観的事情を基礎に判断されるべきである」(『可罰的違法性論の研究』558頁)という考えに忠実であろうとするためかもしれませんが、出典の明示されていない統計資料の活用などは「客観的事情」のねつ造ではないかという疑いを残します。

前田氏は言います、「犯罪を抑止することにとって重要なのは、裁判所や警察である前に家庭であり、学校であり、社会なのである」(『日本の治安は再生できるか』199頁)。では、その当の「社会」とはいかなるものでしょうか。彼が語る現代の「社会」とは、常に不審な少年少女がいる「社会」(『少年犯罪』7,8,9章参照)、常に不審な外国人がいる「社会」(『日本の治安は再生できるか』第二章参照)、さらに言えば、離婚率が高く子供を非行に走らせやすい環境を作る困った女性がいる「社会」(『日本の治安は再生できるか』第四章参照)です。「不審者」という内部の敵を抱え込み、今後も生み出し続ける「社会」、そしてこの内部の敵をつねに監視し、非難し、排除し続けなければいけない「社会」__これこそ前田氏が作り出そうとしている社会像です。そして、彼が語る「国民の意識」とは、こうした「不審者」を積極的に作り出し排除するよう統治に組み込まれ、コントロールされた意識に他なりません。

この社会像に応じて、前田氏の活動は理論的なものから実践へと移行しつつあるように見えます。前田氏は現在、首都大学東京で教鞭をとりながら、インターネット関連企業の代表や識者によって組織される「総合セキュリティ対策会議」(これはネット監視の「ホットライン」設置のための委員会です)の委員長、また警察庁設置の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の座長を務めています。日本の状況がファシズム化してゆく際に、統治権力にとって情報産業の支配と情報操作は要となりますから、この点でも前田氏の姿勢は一貫していると言えます。現在の政治は、単にネット上で情報の規制を行なおうとしているだけではありません。インターネットを含めたメディア全体を「統治の場」として組織し直すことを目指しています。「『不審者』という内部の敵を抱えた『社会』」というイメージは、メディアを統治の実践的な場として再編成するには、まさにうってつけの出発点になります。その際、まずエロと青少年がターゲットとなり、そこから侵食的に展開してゆく仕方でメディア全体が包囲されてゆくプロセスに関しては、『ネオリベ化する公共圏』(すが秀実・花咲政之輔編、明石書店、2006)の中の松沢呉一さんの文章「『エロ』から始まる」が参考になります。いずれナボコフの『ロリータ』が禁書になる日が来るかもしれないな。今の内に映画のDVDも買っとこっかな。

監視の目が行き渡ってきた社会においては、市民からの逆監視の目も多少は有効です。これから先、特に「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」が何をやらかすかは、注目しておくといいと考えます。委員のメンツもすごいですよ。以下に研究会のURLを記しておきます。

http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen29/Virtual.htm

前田氏の活動は、権力が学問から解き放たれてゆく事態を通じて、権力がリアルに「法の外」へ逸脱しようとする瞬間を見事に反映していると言えます。彼の現在の理論の根底にあるのは、法への思考ではなく、「法の外」という幻想を現実化しようとする統治のシステム内部での実務、いや、もはや本来の意味の(法律)実務ではなく、社会を内的な「臨戦態勢」に置く管理のための「テクノロジー」そのものです。もちろん、前田氏の言論だけを論じて刑法学全体が変質していると結論づけるわけにはいきません。今なお「学者」の役割を自覚して刑法に携わっているひとも多いと思います。ただ、刑法とその周辺領域が急激な変化を迎えている現在、いわゆる進歩的な学説の内部にもこの先、変質の兆しが現われてこないともかぎりません。その点は今後、ぼくも注意していこうと考えています。

(やっと一段落つきました、ふう。次回は少し脱線して、自分の経験や文学ネタも入れながら、過剰適応について書こうかなと思ってます。)
posted by aoki at 00:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

ビラまき青年逮捕事件に対する池田のスタンス(1)

まず私はとくに左翼ではないと自己規定している。人は、あるトピックにかんして「革新的」だったとしても、べつのトピックでは「保守的」だったりするものだと考えているからだ。

たとえば、「国家」というトピックにおいて革新的な人間が「それ以前の共同体」というトピックについては保守的だというような状況は、じゅうぶんに考えられる。おなじように「セクシュアリティ」というトピックでは革新的な考えをもっている人間が、新自由主義的な状況に対しては寛容だったりとか、セクシュアリティについて保守的な人間が、その他の人間的「規範」に対しては革新的だというようなこともあるかもしれない。つまり、すべてのトピックにおいて革新的だというようなポジションを、たかだか身体的な存在にしかすぎない人間はとることができない。そのようなポジションをとる人間は、なにか壮大な幻想、たとえば幸福な無政府状態などを内面化しているのではないか。いまのところ私はそのように考えている。

したがってこの事件にかんしても、左翼的なスタンス(よく考えてみればそれが何なのかもよくわからないが)をとらないつもりだ。また、しばらくは「批評家的」なスタンスもとるつもりもない。ここでいう批評家的ポジションとは、事件の当事者として問題を解決する態度ではなく、その問題のありようを、その問題が(それとして)おこる条件にまで遡り、たとえば問題それ自身に内在する関係者の利害関係を暴露するような態度のことである。

今回の件で、最も簡単な方法で批評家になれる方法は「そもそも論」を唱えることである。「そもそもビラまきなどという行為はアナクロで自己満足的な左翼の様式以上の何ものでもないではないか」というようなタイプの見解のことである。メーデー弾圧事件の時もそうだが、ブログ等でたまにみかける主張でもある。いやまったくそのとおり。そう仮定してみよう。そもそも大学のキャンパスでビラをまくなんていう行為は、非効率的で時代錯誤だけではなく、迷惑でさえもあるかもしれない。しかし、そのことと、それによってビラまきの主体が大学の教職員によって「逮捕」されることとは、まったく何の関係もない。これがこの事件についての私の見解である。

それと同様に「この逮捕事件に抗議するということは、その逮捕された青年の団体の利益に荷担することになる。その団体が危険だったらどうするんだ」というような意見もあるかもしれない。まったくそのとおり。これもそう仮定してみよう。そもそも抗議文の「呼びかけ人」になるということは、当該団体に利用されることになるはずで、そのことがわからないで呼びかけ人にになることは、自分だけは心の清らかなつもりでいる独善的な知識人きどりではないのか。仮に当該団体がエゴイスティックで危険な団体だとしよう。この事件に抗議するということは、その団体の利益に荷担することになる。それでいっこうにかまわない。しかしそれは私が人間の利害関係に盲目だからではなく、そのことよりも、この事件を沈黙によって「了承」してしまうことの方がよほど危険だと判断したからである。つまり逆にいえば、この事件を考えるにあたって、当該団体にシンパシーや信頼をよせる必要はないのである。これもこの事件についての私の見解である。

もし、抗議文の呼びかけ人が当該団体の「仲間たち」のようにみえるならば、つまり呼びかけ人の行為がなにか「プライベート」なもののようにみえるとするならば、それは呼びかけ人が、呼びかけ作業を当該団体に「丸投げ」しているからである。これはひとえに私をふくめた呼びかけ人の怠惰によるものである。あるいは、問題をクリアカットする作業をさぼっていたからだとも考えられる。このトピック限定の共有ブログは、そのことの反省から思いついたものだ。それでは、いったい私はどのようなスタンスで、この事件にかかわろうというのか(つづく)。
posted by ikeda at 13:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 池田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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