2006年09月06日

CMです/青木

この場を借りて、ちょっと宣伝します。青木純一はこのたび、メルマガを配信することにしました。無料です。いよっ、太っ腹!

メルマガのタイトルは「ハトポッポ批評通信」です。われながら、すごいタイトルをつけたもんだと感心します。幼稚なことこの上ない。でも、内容はタイトルほど幼稚じゃないですよ。以下のURLから登録できます。
http://www.mag2.com/m/0000206311.html


すでに第一回の記事「レバノンの短編映画」を配信しました。この記事は上のURLの「バックナンバー」をクリックしてもらえれば読めます。来週から連載ものの文学評論「『夢十夜』というギャラリー」も始まります。だいたい、連載ものの文学評論とアート系の記事のふたつを軸にして、週1、2回、曜日は不定で配信してゆく予定です。曜日不定なのは、ぼくの仕事が週ごとに不規則なためです。許してね。バックナンバーは、少なくとも9月いっぱいは公開にしてあります。

「まぐまぐ!」を使って配信しますので、メールアドレスほか個人情報は、ぼくのところには一切伝わりません。「青木の野郎だけには、絶対にオレの情報を握られたくない」とお考えのあなたも(どなただ?)、安心して登録して下さい。

たくさんの方が購読されることを願っております。よろしくお願いします。
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2006年08月10日

ロジスティック(8)/青木

・文章中の「措置入院」を「入院」に書き改めました。詳しくはコメント欄の長野様の御指摘をお読み下さい。この場を借りて御指摘に感謝致します。(青木)


「心神喪失者等医療観察法」の最大の問題点は、この法律が「再犯のおそれ」という理由の下に、どうしたって不確実で、高い確率で恣意的になっちゃう「未来予測」という観点から病者の処遇を決定する「保安処分」として機能する点です。しかも、この「未来予測」には、科学的な根拠のないあの鑑定ガイドラインが使われるわけですから、入退院の決定は判断者の気分次第になりかねません。

では、精神障害者の処遇を最終的に判断するのは、誰なんでしょう。ここもまた、この法律の大きなポイントです。現行の「精神保健福祉法」によれば、自傷他害のおそれがある精神障害者の入院には、2人の精神保健指定医による医療上の診断が必要です。この診断は、あくまでも医療行政の領分にあります。しかし、「心神喪失者等医療観察法」では、裁判官と精神保健審判員(精神科医)の合意によって入院などの必要を判断することになります。つまり、司法も介入するようになります。

もし裁判官が保守的なひとで、触法精神障害者はずっと隔離したって当然なんて考えるようだったら、一度入院させられた患者がいつ退院できるかなんて、もうわかりっこありません。ちょっとSF的な世界です。この法律の施行を危惧しているひとのすべてが恐れているのは、実はこの点です。これは正直、ぼくも怖いです。ちなみに「心神喪失者等医療観察法」の最初の適用者は、新幹線の車内で消火器をふりまわして乗客に軽いケガを負わせたひとだそうですが、ぼくだって、いつトチ狂って「金よこせ、『カントの哲学』の印税を半分よこせ!」と池田さんの家に押しかけて消火器ふりまわすか(池田さんの家に消火器あるのかな)知れたもんじゃありません。このくらいの些細な狂気は(些細かな、まあ些細にしておこ)、誰にだって訪れかねないと、ぼくは思ってます。でも、「心神喪失者等医療観察法」にひっかかったが最後、いつ退院できるかわからない入院の日々が待ち構えているかもしれないわけです。そうなったら池田さんのせいです。そうしときます。
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2006年08月07日

ロジスティック(7)/青木

「ロジスティック(4)」の記事の中で書いたのですが、「心神喪失者等医療観察法」(2003年成立、2005年施行)は、2001年6月の大阪教育大学附属池田小学校での児童殺傷事件が巻き起こした社会的な不安の中で成立した、という経緯があります。これもすでに書きましたが、この事件の犯人の宅間守には精神病院の入院歴がありました。でも、実際には精神障害者を偽装した「詐病」だったことが取調べで明らかになりました。もし現在彼が犯行を行ったとしたも、「心神喪失者等医療観察法」の適用は受けないでしょう。なら、一体なんで「心神喪失者等医療観察法」が成立までこぎ着けたか、と考えると、事件が引き起こした社会的不安を政治とマスメディアが一定の方向に押し流した、とある程度までは言えそうな気がするわけです。「危なそうな『異常性格者』が社会をウロウロしている。もっと監視・管理して、どんどん隔離してしまえ」という方向にです。
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2006年08月03日

ロジスティック(6)/青木

いきなりポルノの話をします。皆さんはポルノ映画かアダルトビデオ(今はDVDかな)を思い出して下さい。見たことないひとは、適当な想像力で補って下さい。引用は高橋源一郎さんの文章です。

「ポルノ映画にはたくさんの規則がある。というか、イデオロギーがある。それは、たとえば『男性は女性を征服しなければならない』とか『男性が性交をしかけると、最後には女性が屈服して喜ぶ』とか『男性は女性を性的に満足させなければならない』とか、そういったイデオロギーである。そのイデオロギーをポルノに教えたのは社会だ。社会は表向きはポルノを嫌悪するけれど、決して排斥したりはしない。」(「愛の学校 アダルトヴィデオを読む」『文学なんかこわくない』112頁、朝日新聞社、1998)
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2006年07月21日

ロジスティック(5)/青木

ぼくのパートは、ビルメンテナンスのお手伝いみたいな宿直の仕事で、勤務時間は夕方の5時から翌朝の9時までです。もう20年以上、同じ勤務地に勤めています。今週の水曜日に出社したら、別の職場の上司がわざわざぼくのところに来て、いきなり「お前はアトピーだから他の正社員が使うベッドとは別のベッドに寝て、できればシャワーも正式の浴室ではないやつを使え」と言いました。こんなこと言われたのは、はじめてです。たしかに湿疹を掻くと血が出て、仮眠のときにベッドのシーツに血痕をつけてしまうことは時々あるのですが、上半身はシャツ(秋から春までは主に長袖)、下半身には夏でも大概タイツをはいているので、血痕といっても軽い染み程度です。それでも気になる人は気になるのだろうと、ベッドの件だけは了承しましたが、シャワーの件はいくらなんでも受け入れられません。その日は平然といつもと同じシャワーを浴び、翌日帰宅後、勤務先に電話して同じ上司に理由をたずねたら、他の正社員が血をいやがるとかいうことで、「少なくとも正社員の後に浴びろ」なんてぬかします。「アトピーは感染症じゃないし、大体血なんてシャワーで流れて消えてるでしょ」と反論したら、ようやく普段通りの使用許可が下りました。アトピーのことをよく知らなかったのか、それとも知ってていやがらせをしてきたのか、どっちなんでしょう。

うちの職場は二つの会社が共同で仕事をしているせいか、最近は雰囲気が妙にぎくしゃくしています。その狭間で、ぼくも変な目にあったのかもしれません。いやがらせをしてきたのはたぶん、ぼくの所属する会社ではないほうの会社の社員たちでしょう。上司は不運な説得役にすぎません。この上司からは「穏便に」みたいに諭されましたが、やっぱりムカツクし、黙っているのもなんかこのサイトの主旨に反している気がするので、あえて勤務地だけは暴露します。都立駒込病院附属臨床医学総合研究所です。笑っちゃうでしょ。もちろん、ビルメンテナンスの社員は、研究所の研究員とは関係ありません。でも、研究所の中にはきっとアレルギーやアトピーの研究部署もあります。そして、同じビルの地下1階の中央コントロール室では、アトピーに対するかくも大人気ないイジメがまかり通っているのです。また理不尽なことを言ってきたら、今度はこのサイトで会社名を二つともスッパ抜いてやります。物書きをなめんなよ。死なばもろともじゃ。

気持ちを取り直して、「ロジスティック」です。
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2006年07月19日

ロジスティック(4)/青木

前回と今回の記事では、芹沢一也さんの『ホラーハウス社会』という本の中の文章を手がかりにして、精神障害者の処遇をめぐる問題を考えています。引用の全文は前回の記事を見てもらうとして、今回参考にするのは引用文中の以下の部分です。

「だが、残念ながら、未成熟や精神の病を理由に裁判から排除されてきた人びとに、正当な法権利を与えようとする方向には事態はまったく進まなかった。
 現実に力をもったのは、一見したところ似ているのだが、その精神においてまったく異なる批判のほうだったからだ。
 その批判とは、そもそも罪を犯したものに、罰を与えないのはおかしいではないかとする批判だ。たとえ少年や精神障害者であっても、犯した罪には責任があるのではないか。厳罰化と呼ばれる傾向が、このような批判を掲げてきた。
 表向きの主張はよく似ている。だが、まったく違うのは、この批判が少年や病者を法的主体とみるのではなく、社会の危険な敵だとみなすものだったことだ。」(『ホラーハウス社会』202-203頁)


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2006年07月16日

ロジスティック(3)/青木

前回の記事では、「心神喪失者等医療観察法」、つまり危険な行為を犯した(とみなされる)精神障害者の処遇を決める法律と、その下で使われる精神鑑定のマニュアル「鑑定ガイドライン」の陰湿でしつっこい内容を紹介しました。今回からはまず、このような法律ができた社会的・政治的な背景を、簡単に考えてみたいと思います。

そのためにまず、少し長くなりますが、芹沢一也さんの文章を引用します。今回と次回のぼくの記事は、この芹沢さんの文章を補足的に説明しながら、ぼくの解釈を加えてゆくという仕方で進めてゆきます。


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2006年07月11日

ロジスティック(2)/青木

これからの話を理解して頂くために、ちょっとだけ今までの記事のおさらいをします。

適応への内圧を高めてゆく社会の中で、適応しないひと、適応できないひとに向けて、権力の側から「法の外」への追放という脅迫が働きます。「お前なんかもう法の庇護の外に置くぞ、どうなっても知らないぞ」という、当初は幻想的な脅迫です。しかし、政治はこの「法の外」という幻想領域を、じょじょに現実化してゆくように思えます。そして権力は、この現実化した「法の外」の領域に向けて、統治のシステムを新たに組織してゆきます。その際、政治は「人間(人格)」を考慮することを放棄してゆくだろうというのが、ひとまずぼくが立てた仮説です。では、リアルなものとなった「法の外」とは、どのような領域なのか。そして、この領域に向けて権力はどのような「技術」を行使するのでしょうか。

ここで一旦、話が飛びますが、2000年に介護保健制度が発足した当時、要介護認定のための一次判定ソフトの不具合が各地で報告されて、メディアにも大きく取り上げられたことを、皆さんは記憶しておられるでしょうか。データを軽めに入力したほうが重い認定度がはじき出されるといったケースまであった、見事なポンコツソフトのことです(現在は改訂版が使われています。少しはマシになったのかな)。当初ぼくは妙な違和感を感じつつも、「ソフトを作ったやつと、ろくにチェックもしないで実施に踏み切ったやつが、アホだったんだろ」くらいにしか考えなかったのですが、今思うと、その時の違和感をもうちょっと踏み込んで考えておけばよかった気がします。

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2006年07月08日

ロジスティック(1)/青木

パート先のテレビでNHKを見ていたら、「第5次医療法改正」と「障害者自立支援法」の問題点に関する特集をやっていました。番組の結論だけ言うと、この先「医療難民」、あるいはそれに類したひとが増えるだろう、ということです。つまり、経済上ないし制度上の制約で、病院での医療やリハビリを受けたくても受けられないひと、また必要に応じた介護サービスを受けたくても受けられないひとが増えてゆく、ということです。ぼくは自分が病気がちだから、とても他人事とは思えません。去年ぼくは一時期本当に無一文になって、医者にも行けなくて、2週間足らずの間ですが、いつも欠かさず服用しているアレルギーの薬を切らしたのですよ。別に強い薬じゃないんですけど、ラストの5日間くらいは結構きつかったなあ。

そこで、気になりついでに、当の「障害者自立支援法」とやらをダウンロードして読んでみたわけです。まず第三条を見てみると、こうあります。「すべての国民は、その障害の有無にかかわらず、障害者等がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営めるような地域社会の実現に協力するよう努めなければならない」。なるほど、理念はわかります。でもその後を読むと(第二十九条など。長い文面なのでここでははしょりますが、第二十九条だけをコメント欄に引用しておきます)、障害者の経済的な自己負担を増やしたいだけじゃないのか、という気がしてきます。障害者とその家族のフトコロに狙いを定めた法律なんじゃないかな、これは。他にもさまざまな問題がある「障害者自立支援法」に関しては、以下のサイトを参照して下さい。リンク先で支援法の中身も読めます。

障害者自立支援法?、最初っからやり直すべし!
http://www.arsvi.com/0ds/200502.htm

法律がかかげる理念と、その法律が具体化する現実とのギャップ。その理由はどこにあるのでしょうか。一言で言えば、生活者、この社会で生きている人間への想像力が、今の政治には欠落している、あるいは想像力が変質している、ということではなかろうか。あともうひとつ、日本の政治が言葉を大事にしてこなかった、ということもあります。

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2006年06月19日

過剰適応(5)/青木

さて、教訓2:「日本の(大学)社会は、基本的にコネと人脈を中心にまわっている」についてですが、これを説明するには、なぜぼくが大学に残らなかったかを語るといいかもしれません。博士論文まで書いてなんで大学に残らなかったかと不思議がられることはよくあるのですが、答えはカンタン、ぼくには非常勤講師の口ひとつなかったからです。ただしこの事態は、早稲田の大学院内部でもやや例外的なことかもしれないので、あくまでもぼく個人のケースとしてお読み下さい。

大学内部では常識でありながら、大学の外ではあまり知られていないことに、非常勤講師の雇用の問題があります。非常勤のコマというのは、基本的にほぼすべてコネでまわっています。知り合いから知り合いへと受け継がれるわけです。具体的に言うと、指導教官が担当の院生のためにコマを確保したり、先輩から後輩に受け継がれたりするわけです。ぼくもドクター・コースの終り頃は教員公募の採用告知などよく見てましたが、哲学・思想関係での非常勤講師の公募というのは一回しか見たことありません。応募しましたけど、落ちました。
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2006年06月15日

過剰適応(4)/青木

なんだかちょっと「過剰適応」というテーマからは脱線気味と思われるかもしれませんが、院生時代のぼくの身の上話を続けます。この先、だんだんとグチっぽい内容になっていっちゃうんですけど、本来の意図はグチではないので、その点はどうか了解して下さい。

まず教訓1:「大学院生活において、病気、特に長患いをすると大変な目にあう」についてですが、これは主に経済的なことです。といっても、医療費ではないのですよ。学生保健に入っていれば、医療費はかなりの程度戻ってきます。問題なのは生活費です。大半の院生の経済生活は、アルバイトやパートの収入と奨学金で成り立っています。奨学金は主に旧育英会、現在の独立行政法人「日本学生支援機構」から「貸与」されます。そう、あくまで「貸与」、いつかは返済しないといけないお金です。結構、いい金額が振り込まれます。ぼくの時代で文系の修士課程では月に7万弱、博士後期課程で月に10万強だったと記憶しています(さっきから奨学生手帳を探しているのに見つからないので、正確じゃないかもしれません)。ただし、在籍期間全部にわたってというわけではなく、最低年限だけ振り込まれます。つまり、修士課程なら2年間、博士後期課程なら3年間だけ支給されます。

ぼくの場合、奨学金の使い道はまず学費等の支払いでした。これで2、3ヶ月分くらいは消えてしまいます。あとは本の購入や学会費、アルバイトだけでは足りない生活費などです。それでも奨学金とアルバイトを足せば、贅沢さえしなければ、十分暮らして行けました。病気をするまでは。
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2006年06月13日

過剰適応(3)/青木

どうも梅雨入り前の時期から毎年、心理的に軽い「バテ」に襲われます。気圧の変化が原因であろう、というのがぼくなりの仮説。でも確証がありません。温度や湿度と違って、気圧は「おっ、今1000ヘクトパスカルくらいだな」とか、体感としてわかんないですからね。今週からはまた元気出していこうと思ってます。

現在出ている「群像」7月号の「Review Films」のコーナーで、作家の雨宮処凛さんが4月30日の「自由と生存のメーデー」デモへの弾圧のこと、さらには「労働」をめぐる近年の現実について記しています(「プレカリアートと靖国」というタイトルの文章です)。さっすが、感度がいいですね、雨宮さん。4月30日のデモに関しては、ぼくが確認したかぎりでは、「SPA!」の6月6日号にも写真入りで報道されていました。でも、日本の社会の「現在」を露骨に象徴するこの事件は、本来もっと大きく取り上げられるべきです。大手マスコミは、また「ばっくれ」かよ。デモに対する弾圧の経緯に関しては、このブログ内の池田さんの記事をどうか参考にして下さい。

さて今回からは、ぼくの大学院生時代の記憶をほじくり返しながら、過剰適応の問題を具体的に考えようと思うのですが、大学の外からだと院生の生活って見えにくいかもしれません。あくまで早稲田の文学研究科、それもぼくが在籍していた当時、つまり今から5年以上前の話に限定しますが、簡単に大学院の制度をお話します。

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2006年06月04日

過剰適応(2)/青木

前回はハンガリーの作家ケルテース・イムレの小説『運命ではなく』を取り上げて、過剰適応の話を進めました。ハンガリーの、それもナチス占領下時代の話となると、「今の日本とは関係ないじゃん」と思われるかもしれないけど、ケルテースと似た観点から過剰適応の問題を扱っている作家は日本にも、それも若い世代にいるのです。中村文則さんがそうです。中村さんの作品の主人公の多くは、養子体験を背負っています。そして、よく読むとわかるのですが、この主人公たちは、ひとまず本能的に環境に順応しようとする過剰適応の徴候を見事に示しています。

ケルテースと中村文則さんの文体を簡単に比較してみましょう。訳者の岩崎悦子さんが指摘していることですが、『運命ではなく』では「……と思われる」「……のように見える」といった挿入的な文章がよく出てきます。中村文則さんのデビュー作『銃』の中には、「……よくわからなかった」という終り方をする文章がたくさん出てきます。どちらも自分で自分の欲望や意志を確認しなければすまない心のあり様を表していると思えますが、「……よくわからなかった」という分だけ、中村さんの主人公のほうが重症と言えるかもしれません。基本的に中村文則さんの作品の主人公たちは、自分の気分や欲求でさえ自分で所有しているという実感を抱いてはいません。適応のために心のエネルギーの大半を使い果たしているのです。そのような状態からいかにして自分の生きる権利を作り出すか、ここに中村さんの作品の大きなモチーフのひとつがあります。

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2006年05月30日

過剰適応(1)/青木

文芸評論家という肩書きがつく以上、日本の現代文学をガツガツと読まなきゃいけないんですけど、最近はひまになるとつい海外の翻訳ものに手が出ます。「仕事」という意識がまったく入らない分、読書が純粋に楽しめるからだろうか。こういうあたり、ぼくは今一つプロに徹し切れません。

わりと最近に読んだ本の中で感銘深かったもの、というか今に至るまでずっと考えさせられている一冊に、ケルテース・イムレ(1929-)というハンガリーの作家が書いた『運命ではなく』(岩崎悦子訳、国書刊行会)という小説があります。ハンガリーでは日本と同じで姓が先に来るので、ケルテースが姓、イムレが名です。『運命ではなく』の内容はと言えば、もう実録ナチス収容所ものと言っていいでしょう。ケルテース自身が少年期に収容されたアウシュヴィッツやブーヘンヴァルトといった強制あるいは労働収容所での体験を、後から回想的にいろいろ加味して書くという仕方ではなく、できるだけ当時の少年の感性をそのまま再現しながら記録した小説です。ケルテースはあるインタビューの中で「ホロコースト文学の大半が、体験時には分からなかったはずの事実まで、分かっていたように扱っているのに違和感を感じていた」(あとがき、285頁)と語っています。ぼくは最初この小説を、ナチスの非道さを生々しく暴くドキュメンタリー・タッチのヒューマニスティックな作品だと半ば予想して読み始めました。

確かに生々しくはありました。ケルテースの記憶力は大したもので、収容所の細かい事実までよく覚えています。でも普通の意味でヒューマニスティックというのとは、ちょっと違いました。ラスト間際の一文が象徴的です。「そうだ、いずれ次の機会に誰かに質問されたら、そのこと、強制収容所における幸せについて、話す必要がある」(278頁)。「強制収容所における幸せ」、あらあら、ショッキングな言葉でした。どういう意味なのでしょう。ひとまず少年の言葉を聞いてみましょう。

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2006年05月21日

学問から解き放たれる権力(3)/青木

(前々回、前回から引き続いて、前田雅英氏の刑法理論を論じています。)

それにしても、まがりなりにも刑法「学者」である前田氏が、なぜ刑法学そのものを非学問化するような立場に立とうとするのでしょうか。自分で自分の食い扶持を減らしてるようなものではないか。そういう素朴な疑問がわきます。ここを考えるためには、彼が「社会」をどう見ているかを論じなければなりません。前田氏は刑法の運用を「国民の意識」(『刑法から日本をみる』13頁)に合わせていくという点をいつも強調します。ところで、このひとの本の中にはやたらと「国民の規範意識」とか「国民の常識」といった言葉が出てくるのですが、その実体はさっぱりわかりません。それどころか、「……少年の犯罪を増加させてきたのは『社会』であり」(『少年犯罪』はしがき)と言い、戦後の社会の流れを犯罪化の歴史として批判しているのだから、余計に変な感じがします。

しかし、それもそのはず。前田氏は別に「国民の意識」とやらをきちんと歴史を吟味して考えているわけではありません。少なくともぼくの読んだ本の中には、そういう努力の跡はうかがえません。むしろ、治安の観点から(けっして厳密に法の観点からではありません)彼が要求する「規範」に従うよう、曖昧で同質的な「国民の意識」なる「気分」を作り上げようとしていることが、特に『少年犯罪』『日本の治安は再生できるか』という2冊の本からは感じられます。イメージの操作が露骨なのです。

そして、実はここにこそ彼の首尾一貫性があると言えます。簡単に言っちゃえば、前田氏は刑法学者として法律実務のチェック機能を果たすというカウンター・パワーである役割をはるかに超えて、むしろ積極的に「国民の意識」とやらを作り出し操作すること、そうすることで統治的な権力を間接・直接に行使することを目指しているのです。そこがわかれば、上記の2冊の著作の狙いもわかります。サブリミナル効果でも狙っているのかと思われるような、時に意味不明ですらある写真の挿入は、この2冊の本が学問のための著作ではなく、読者の意識をコントロールするために書かれた本であることを証しています。内容はともかく、その編集のテクニックは、巷で配られている宗教パンフレットと同じたぐいのものです。統計にこだわり続けるところは、ひょっとしたら初期の「違法性は客観的事情を基礎に判断されるべきである」(『可罰的違法性論の研究』558頁)という考えに忠実であろうとするためかもしれませんが、出典の明示されていない統計資料の活用などは「客観的事情」のねつ造ではないかという疑いを残します。

前田氏は言います、「犯罪を抑止することにとって重要なのは、裁判所や警察である前に家庭であり、学校であり、社会なのである」(『日本の治安は再生できるか』199頁)。では、その当の「社会」とはいかなるものでしょうか。彼が語る現代の「社会」とは、常に不審な少年少女がいる「社会」(『少年犯罪』7,8,9章参照)、常に不審な外国人がいる「社会」(『日本の治安は再生できるか』第二章参照)、さらに言えば、離婚率が高く子供を非行に走らせやすい環境を作る困った女性がいる「社会」(『日本の治安は再生できるか』第四章参照)です。「不審者」という内部の敵を抱え込み、今後も生み出し続ける「社会」、そしてこの内部の敵をつねに監視し、非難し、排除し続けなければいけない「社会」__これこそ前田氏が作り出そうとしている社会像です。そして、彼が語る「国民の意識」とは、こうした「不審者」を積極的に作り出し排除するよう統治に組み込まれ、コントロールされた意識に他なりません。

この社会像に応じて、前田氏の活動は理論的なものから実践へと移行しつつあるように見えます。前田氏は現在、首都大学東京で教鞭をとりながら、インターネット関連企業の代表や識者によって組織される「総合セキュリティ対策会議」(これはネット監視の「ホットライン」設置のための委員会です)の委員長、また警察庁設置の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」の座長を務めています。日本の状況がファシズム化してゆく際に、統治権力にとって情報産業の支配と情報操作は要となりますから、この点でも前田氏の姿勢は一貫していると言えます。現在の政治は、単にネット上で情報の規制を行なおうとしているだけではありません。インターネットを含めたメディア全体を「統治の場」として組織し直すことを目指しています。「『不審者』という内部の敵を抱えた『社会』」というイメージは、メディアを統治の実践的な場として再編成するには、まさにうってつけの出発点になります。その際、まずエロと青少年がターゲットとなり、そこから侵食的に展開してゆく仕方でメディア全体が包囲されてゆくプロセスに関しては、『ネオリベ化する公共圏』(すが秀実・花咲政之輔編、明石書店、2006)の中の松沢呉一さんの文章「『エロ』から始まる」が参考になります。いずれナボコフの『ロリータ』が禁書になる日が来るかもしれないな。今の内に映画のDVDも買っとこっかな。

監視の目が行き渡ってきた社会においては、市民からの逆監視の目も多少は有効です。これから先、特に「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」が何をやらかすかは、注目しておくといいと考えます。委員のメンツもすごいですよ。以下に研究会のURLを記しておきます。

http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen29/Virtual.htm

前田氏の活動は、権力が学問から解き放たれてゆく事態を通じて、権力がリアルに「法の外」へ逸脱しようとする瞬間を見事に反映していると言えます。彼の現在の理論の根底にあるのは、法への思考ではなく、「法の外」という幻想を現実化しようとする統治のシステム内部での実務、いや、もはや本来の意味の(法律)実務ではなく、社会を内的な「臨戦態勢」に置く管理のための「テクノロジー」そのものです。もちろん、前田氏の言論だけを論じて刑法学全体が変質していると結論づけるわけにはいきません。今なお「学者」の役割を自覚して刑法に携わっているひとも多いと思います。ただ、刑法とその周辺領域が急激な変化を迎えている現在、いわゆる進歩的な学説の内部にもこの先、変質の兆しが現われてこないともかぎりません。その点は今後、ぼくも注意していこうと考えています。

(やっと一段落つきました、ふう。次回は少し脱線して、自分の経験や文学ネタも入れながら、過剰適応について書こうかなと思ってます。)
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2006年05月19日

学問から解き放たれる権力(2)/青木

(前回から引き続いて、前田雅英氏の刑法理論を論じています。)

前田氏は、検事や裁判官に現在よりも強い権限を求める一方で、憲法判断に関しては司法、たとえば最高裁は「行政の問題、立法の問題は、判断すべきではない」(『刑法から日本をみる』226頁)と回避します。詭弁のようにも聞こえますが、おそらくその理由は、彼が実際には司法を法からではなく、「社会」(かっこつきです。統治の側からイメージされるだけの「社会」です)に向けて考えているからです。前田氏の主張の眼目は、刑法理論の実務化による司法全体の治安効果の強化にあります。「……法解釈を行なう裁判官、検察官、警察官は、まさにこの価値について日々決断しなければならない。法理論の側もそれに対応して、いかなる利益を刑法を用いてまで保護するか、を考えなければならない」(『日本の治安は再生できるか』ちくま新書、2003、183頁)。この主張をさらに拡大していけば、政治の中で司法そのもののあり方を内的に改造することへ向かいます。罪刑法定主義と三権分立に対する彼の見直し論もここから理解しなければなりません。「刑法でも、罪刑法定主義の中身にはいろいろあり得る。一九世紀ヨーロッパ型の三権分立が、今の日本にいいとは思わない。法律をきちっとつくって、それで実務家を縛れば国民主権につながるかというと、嘘だと思う」(『刑法から日本をみる』208頁)。

前田氏は新派刑法学に親近感を抱きつつも、自分の理論を新派と旧派を「止揚」(『刑法から日本をみる』32頁)するものとして提起しますが、ぼくは新派とも旧派ともまったく別物だと考えます。新派刑法学というのは、日本では明治中期頃から発展してきた社会防衛的な刑法理論で、犯罪行為よりも犯罪者の主観に重きを置き、犯罪の社会的原因の除去や刑罰の治療的な効果を目指した理論と言えると思います。今の言葉でいえば、典型的に規律・陶冶 (ディシプリン)型の理論です。新派刑法学が犯罪者の内面の危険性を規定しようとしたとき、その論拠として登場したのが精神医学です。このことは、芹沢一也さんの『<法>から解放される権力』(新曜社)という著作にくわしく論じられています(これはとてもいい本で、確か池田さんも好きだったはず)。ところが、前田氏の刑法理論は社会学や精神医学から刑法を解き放とうとするものです。たとえば、法社会学に関してはこう書かれています。

「一方、法社会学というのは、むしろ民法なら民法、刑法なら刑法、各分野の中に吸収され尽くされちゃったという感じがします。だから、法社会学一般という学問が消えてゆく……。」(『刑法から日本をみる』81頁)

また前田氏は、裁判官が精神鑑定の結果に左右されないこと、したがって精神医学の影響から離れることに意義を認めます。

「ちょっと前の、戦後の科学主義万能の時代は、医者が言うとそれに従う。鑑定というのはすごく重視されたんだけど、それがかなり動いてきた。評価の問題は、ある部分常識でいくんだというふうに変わったというのが、日本の責任能力論の動きですよね。」(『刑法から日本をみる』76頁)

彼はこの文脈から、宮崎勤事件の判決に関しても「……そもそも、医学に全面的に従う必要はない」(77頁)と言い切ります。でも、別の本では「……精神医学分野における『性格異常』の研究の深化は、喫緊の課題である」(『少年犯罪』209頁)とも書いてますが、これは「性格異常」という言葉がはっきり示しているように、法律実務に寄り添った犯罪精神医学へのエールにすぎません。前田氏自身がはっきり言っているわけではないのですが、おそらく彼が刑法理論として現在依拠しようとしているのは、七〇年代半ばにアメリカで主張された「威嚇抑止刑論」ではなかろうか。この理論は「……人間は誘惑に弱いものであって(性悪説的人間観)、人間の性格など矯正できるものではないとして、実証主義犯罪学への不信感を示す」(『少年犯罪』184頁)ものだそうです。このような理論からなら、「性格異常」者はもはや矯正や保護の対象ですらなく、単に「不審者」として排除の対象とされるでしょう。

刑事政策が人間科学から切り離されることなど大したことじゃない、と思われるひともいるかもしれませんが、これは刑事法上は一大転機と言えるほど重大な事態です。今ぼくの手許にある『基礎から学ぶ刑事法 第3版』(井田良著、有斐閣、2005)の中にも、刑事政策の基本精神として人道主義、法治主義、国際主義と並んで「科学主義ないし合理主義」(74頁)が挙げられています。この内、人道主義、法治主義、科学・合理主義は、べッカリーア以来の遺産だそうです。科学はひとまず、憶測や仮定でひとを裁いてしまう危険から市民を守ります。歴史の現時点で、科学主義から切り離された刑事政策は、場当たり的な権力の濫用になる可能性のほうが大きいと言えます__と言いたいところですが、今の世の中、「科学」の名の下に政治にすり寄るエセ学者もウヨウヨいるからなあ。何ごとも見極めが肝心。

(あと少しだけ続きます。青木)
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2006年05月17日

学問から解き放たれる権力(1)/青木

まず以前の記事で書いたことをやや発展させながら、少しまとめておきます。現在の社会で起きている階層化の動きの中で、差別する側から差別される側へ向かうベクトルで「法の外」、つまり「法の庇護から排除する」という、幻想としての共同観念が生じます。この幻想の根底には、権力の編み目の中に「非人格」という奇妙な空白が開いてしまったという事情が見え隠れしています。会社中心主義が壊れた後の新たな社会編成の内部で生まれてきた行政の声の届かない領域、たとえば「ニート」というイメージで表象される領域を、統治は一旦「非人格」という空白のカテゴリーに囲い込んだのです。しかし、この「非人格」という空白は、行政にとっても危険な空白です。権力はこの空白を新たな統治のシステムで再編成する必要があります。システムの構築と同時に、新たな社会像が形成されてゆきます。たとえば「不審者」という言葉が指し示すのは、浮かび上がってきつつあるこの新たな社会像と関係しています。つまり、「つねに『不審な』階層が存在する社会」という像です。この社会像がうまく機能すれば、政治は社会を常に内的な「臨戦態勢」に置くことができます。しかしその際にも、統治は市民を「非人格的に」掌握する手段を継続すると予想できます。ただその手段を繊細にするだけです。政治は「人間(人格)」を放棄しつつある、というのがひとまずの結論です。

もちろん以上は、ぼくの仮説に過ぎません。しかし、検証する方法はあります。政治が「人間(人格)」を放棄する過程で起こる事態は予想できます。そのひとつは、権力が学問から解き放たれてゆくという状況です。ここで言う「学問」とは、ひとまず主に「人間」を探究する学問、すなわち精神医学や社会学といった人間科学(人文科学)を指します。大学がこれから置かれてゆく状況を考えるのにも、ぼくはまずこの事態を踏まえておきたいと考えます。最初に現在「刑法学」の内部で起きている変化を調べてみたいと思います。

今回取り上げるのは「ポストモダンの刑法理論」(前田雅英・藤森研『刑法から日本をみる』東京大学出版会、1997、23頁、以下この本からの引用はすべて前田氏の発言です)を自称する前田雅英氏のいくつかの著作です。前田氏の考え方は実は思いっきりネオリベで、その意味では突っ込みどころ満載なのですが、ぼくがここで目指しているのはネオリベ批判ではありません。あくまでも、権力が学問から解き放たれてゆく状況で起こる出来事の分析です。前田氏の立場は「実質的犯罪論」と呼ばれる立場らしいですが、そうした専門性にも今は係わりません。ぼくもよく知らないし。

のっけから結論を書いてしまうようなもんですが、前田氏の刑法理論の根本にあるのは以下の考え方です。

「私の考え方は、一言でいうと、刑法理論が、少なくとも二一世紀の前半は、いろんな意味で実質的な方向に動いていくというものなんです。その『実質』を担うのが法律実務家だと考えているのです。法律実務家の『価値判断』を尊重すべきだということなのです。もちろん、学者というのは、実務を少し離れたところから冷静に見ていて、具体的妥当性に振れすぎるのをチェックする役割は持ちますけれど、国民の規範意識を踏まえて、具体的事案に対して価値判断を行う作業に関しては、実務家を基本的に尊重するということです。」(『刑法から日本をみる』22-23頁)

うーん、わかりやす過ぎるぜ。この本を読む前にぼくは池田さんにメールで、もし権力が学問から解き放たれてゆくなら「刑法理論は統計から把握される社会像に合わせた功利的な実務に変容する。」と予想を書いたのですが、なんだよそのままじゃん。分析のし甲斐がない。ちなみに前田氏は『少年犯罪−統計からみたその実像』(東京大学出版会、2000)という著作を出しているくらい統計好きですが、統計の扱い方にはネット上でも多くの批判が出ています。ひまな方は、検索をかけてみて下さい。ぼくは統計操作よりも、統計そのものに与えられている意味合いのほうに関心があるので、データの真偽に関しては判断を保留します。なお「法律実務家」という言葉は、主に裁判官・検事・弁護士を指すらしいのですが、前田氏の念頭にあるのは特に刑事司法、つまり検察と警察、それに加えて裁判官といったところでしょうか。それはともかく、せっかくだから前田氏の主張をもう少し細かく見ていきましょう。

初期の理論的著作『可罰的違法性論の研究』(東京大学出版会、1982)をチラ見してみて、ぼくが理解できた範囲で言えば、その後の前田氏の刑法理論にも一貫しているのは、法律実務を重視した判例中心の法解釈という点と、あともうひとつ、後に問題にしますが、国民の意識なるものの重視という点です。刑法学の専門書はまさに専門用語の狂い咲きといった感じで、それはそれで元哲学畑のぼくには面白くはあるのですが、引用にはあまり向きません。註の中の前田氏の文章から、比較的わかりやすい一文を引き抜いておきます。

「客観的に一定の重さをもった物質を天秤にかけるのとは異なり、犯罪行為の違法性は、その国とその時代によって異なる国民の価値意識を背景に、裁判官により慎重に決定されざるを得ないのである。」(『可罰的違法性論の研究』529頁)

ちなみに「可罰的違法性」というややこしい概念が実際に法廷で持ち出される事案の多くは、公安・労働事件です。「ビラ貼りと建造物損壊罪との関係」では、前田氏は「一応一〇〇〇枚程度が相対的軽微型の目安」(『可罰的違法性論の研究』534-5頁)と述べています。何言ってんだかよくわかりませんが、たぶんビラ千枚程度貼るだけなら「大したことないから、無罪でいいんじゃねえの」という意味じゃないかな。ビラ撒きだったら、どの程度なんでしょうね。ちょっと聞いてみたいところです。

この八十年代の著作からうかがえる限りでは、当時の前田氏は特に厳罰主義者ではなさそうだし、形式的な必罰主義とは遠く離れています。彼のその後の理論の特色も、別の場所に求めるべきだとぼくは考えます。

(長くなるので一旦ここで切ります。青木)
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2006年05月09日

法の外(3)

今回はちょっと脱線します。ぼくはもともと政治や社会事象が得意のフィールドではないので、そろそろ文学についても少し話したくなってきました。

以前、ガタリか誰かの本の中で、エベレストで死ぬひとの半分くらいが日本人だ、という話を読んだ記憶があります。本当かどうか確かめたわけではないのですが、妙に納得しました。というのは、その当時からぼくは日本人の法意識、というか「法」というものへの感受性について大きな関心があったからです。この問題は、ぼくの中でまだ全然決着はついてません。ひとまず想定しているのは、日本人の民族的な心性の奥には、「自分の命を捨ててでも守るべき『法』が存在する」という感覚が根強く残っているのではないか、ということです。ぼくはこの感覚を一概に批判したくはありません。むしろ、歴史的な心の問題として、強い興味を抱きます。ただ、政治的に利用されやすい心性だとは思います。

日本の作家の中で特に「法」への感受性が鋭いのは、森鴎外と三島由紀夫です。二人とも官僚経験者というのも面白い。晩年の境地(鴎外の史伝、三島の革命行動)が難しいのも共通してます。この二人の作家は、「法」への感受性が鋭いだけに、「法の外」についても鋭い感覚を持っていました。というか、「法の外」の状況を見事にヴィジョン化することのできた作家でした。さらに二人に共通して言えるのは、「法」を重んじる思考の裏側に実は強烈なアナーキズムを秘めていることです。この二人の作家の「法の外」のヴィジョンの根底にはアナーキーな欲望があり、さらにそれが翻って「法」への思考を変容してゆきます。鴎外と三島は、「法」と「法の外」との間のこの緊張関係に生きた作家だったと思います。

ですから、ぼくが「法の外」という言葉を使うとき、実は否定的な意味ばかりを考えているわけではありません。むしろ、メディアや行政が投げつける「不審者」や「犯罪予備軍」という言葉が言外に含んでいる「法の外」という幻想を逆手にとって、(たとえばそれを「無所属の寄生者」と翻訳することで)、「法」をめぐって何か新しい戦略を思い付けないかと考えているわけです。まだ試行錯誤ですけどね。ただ、三島がやったような自爆テロ的な革命行動は考えてませんよ。そんなことしたら、それこそ『阿部一族』や『大塩平八郎』の悲劇の再現です。重要なことは、「法の外」をポジティブに捉えるためには、まずこの幻想の共同性を無化する必要があることです。ひとまず、個人個人が極私的に頭の中で「法の外」という観念のパロディーを作るところから始めるといいと考えています。そういう場合、すぐれた文学は参考になります。

「法の外」、英語で言ったらアウトロー(outlaw)、ちょっとかっこいいですね。でも、昔は「アウトロー」を殺しても罪にはならなかったらしいですね。辞書にそう書いてあります。ドイツ語にはさらに面白い「フォーゲルフライ(vogelfrei)」という言葉があります。「法の保護を奪われた、法益をはく奪された」という意味ですが、単語そのものを直訳すると「鳥の自由」です。ニーチェには「プリンツ・フォーゲルフライ」という詩があります(「プリンツ」は王子の意味です)。『メッシーナ牧歌』に入っています。ニーチェは自分を「フォーゲルフライ」な者、すなわち「法の外」にいる者、そして鳥のように自由な思想家と考えていたのでしょう。好きな詩なので、冒頭の二連を引用します。

「こうしておれは曲がった木の枝にとまり/はるかな海や丘陵を見おろしている。/一羽の鳥がおれを賓客として招いてくれた。/そのあとについておれは飛びに飛び、また休み、/小さな羽をしきりと動かした。
白い海はまどろんでいる。/おれはすべての悲哀と嘆息を忘れた。/目標も、寄港地も忘れた。/恐怖も賞讃も刑罰も忘れた。/いまではどんな鳥のあとでも追っていく。」(氷上英廣訳)

現代作家だと多和田葉子さんが、鴎外や三島とはまた違った意味で、「法」に対する感覚が鋭いです。最近の作家の中では、ちょっと珍しいタイプです。ぼくは多和田さんの作品が大好きで、今後の日本文学はこのひとの思考をどんどん吸収したらいいと思うのですが、これはいささか厳しい注文かもしれない。多和田さんの作品は、従来の日本文学の枠にはおさまらない異質な要素をたくさん含んでいますから。でも、「法の外」という共同観念をパロディーにするには、このひとの作品は格好の手本になります。たとえば、『変身のためのオピウム』という小説の冒頭近くに、こんな文章があります。

「前から問題になっていた新しい法案がついに可決され、下半身の治療については保険がきかないことになった。これからは下半身の器官を上半身に移植する手術が増えるだろう、とラジオで社会情勢評論家が言っていた。」(一)

いきなりかましてくれます。わけわからん強引な法案に対して、これまたむちゃな移植手術によって応対するわけです。いろんなイメージが湧いてくる文章です。基本的に多和田さんの作品では、法に適したものと違法なものとが相互にくるくる転化して、しまいには「合法性」が宙吊りになっちゃう世界が描き出されています。こんな文章もあります。

「膣から頭髪の分け目まで、身体を貫いて、毎秒一本の管が伸びる。それは、解剖学者たちが色分けした内臓を押し込んだあの身体ではない。毎日、鏡に映るあの身体でもない。毎月、生命保険会社が売りつけにくるあの身体でもない。それにしても、たくさんの身体が次々配達されてくるものだ。いったい、いくつ身体を引き受けろと言うのだろう。中には、未登録の身体もある。たとえエロスに満たされていても、性行為には不便な身体もある。そういう身体は法に反しているのかもしれないが、目に見えないので罰せられることもない。」(四)

この「未登録の身体」のイメージなんて、「法の外」の見事なパロディーになってます。どことなく「無所属の寄生者」にも似てるでしょ。どことなく、ですけど。この方向で、「法の外」という幻想領域の共同性を無化していければ、きっと面白いはずです。それにしても「たとえエロスに満たされていても、性行為には不便な身体」って、どんな身体なんでしょう。ドラえもんみたいなやつかな。想像がふくらみます。

現在、日本の文学も岐路に立っています。個々の作家が政治や社会について発言する必要は必ずしもありませんが、あまり現状に甘えていたら、小説を中心とした文学が、池田さんの言うように、現実を見えなくさせるためのシールドになってしまう危険は確かにあるのです。ただ、危機の時代は、新たな活路が見つかる可能性の時代でもあります。文学も今が正念場、ふんばりどころです。その際、「読書」が変わることも文学が進化する重要な要素です。というか、本当は「読書」が変わることが、文学が変わる一番の近道です。文学を作家や批評家が主導するものと考える理由なんか、どこにもありません。そこで、今一番「読書」に対して刺激的かつ挑発的な多和田さんの作品の文章を引用してみました。

ここから先、じっくり考えたいことが多いので、ぼくの記事の更新のペースは多少遅くなると思います。どうか御容赦下さい。次回からは「学問から解き放たれてゆく権力」というテーマで記事を書いてゆく予定でいます。
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2006年05月05日

法の外(2)

一体この数年の間で、日本では何万人にひとが自殺したのだろう、さらにその記憶に苦しんでいるひとは何倍になるだろうと考えると、暗く深い穴の縁に立って自分も落っこっちゃいそうな気分になります。ぼくも生活が苦しいし、最近は頻繁にボーッとするし、自分の限界みたいなことを痛切に感じます(年齢のせいもあるけどさ)。以前ぼくは、自殺者の多い昨今の状況を「非常時」と書いたことがあります。「非常時」という言葉は小林秀雄から借りたんですけど、ちょっと意味をずらして使ってみたわけです。この点に関して想像力のない政治家も学者も、ぼくは信用しません。何が少子化対策だ、バカヤロー。

鬱病や境界例と言われるような現在の精神の病いの多くは、社会構造の変化にともなう「公害」と言っていいでしょう。個人の問題以上に、社会総体の問題です。余談になるけど、実はぼくは早稲田の大学院に長いこと在籍していて、大学院の雰囲気はよく知っているのですが、マジメな院生は精神的に苦しみますね。ぼくはクソ生意気な不良でしたから、精神的にはあまり苦しまなかった。アトピーがひどかったけど。それはともかく、なんらかの組織の内部で生きる人間にとって、その組織の変化は否応なく心に作用します。そして、日本人は否応なく日本の社会組織の内部で生きてます。この二十年来の社会の変化は、多くの市民にとって「戦争」といっていいほどきつかったし、死者を大量に出し、今も出しています。このことをぼくは絶対に忘れないつもりでいます。

そこにきて、近頃の政治家たちの「格差」容認発言です。彼らの発言は、一見、資本主義内部でのダイナミズムについて語っているように響くかもしれませんが、それは仮装で、本音は違うとぼくは自分勝手に解釈してます。あれは、社会の階層化に本格的に着手するぞ、という脅迫みたいなもんです。ぼくは「格差」の意味を、経済的な「階級」よりも政治的な「階層」として捉えています。そして、なぜ階層化という脅しが必要かと言えば、第一の理由は管理の効率化です。

管理のシステムが大きく変わる場合の最大の理由は、従来のシステムでは効率的に高くつき過ぎてしまうという、実にプラグマティックなものです。職種も多様、家族形態も多様、性行動も多様、しかも個人が日常の場面で多チャンネル的にライフスタイルを変換する現在の世の中では、行動の規律とか精神的陶冶といった管理の仕方では、もういくら税金を注ぎこんでも足りないし、空砲に終る可能性のほうが大きい。監視のシステムは急速に発展しつつありますが、ウィニー騒動に見られるように、情報テクノロジーの進化はいまだ突然変異的で、監視する者が監視(のぞき見)されちゃったという逆効果も生じています。これじゃパノプティスム(一望監視方式)すら成り立ちません。そこで、社会の中に一定の階層の閾(しきい)をあらかじめ設けておいて、その内部にいれば法的な保護や福祉の対象になるけど、その閾から一歩外へ踏み出したら、もう「法の外」だぞ、どうなっても知らないぞ、という極めてシンプルな幻想の一線を引くことで、まずそこからなんとか効率的な管理の仕方を権力は作り出そうとするわけです。早稲田大学の一連の対応も、こうした管理の仕方を野暮ったいほど露骨に真似しています。

「法の外」という幻想が、幻想とはいえ恐ろしいのは、「法の外」にいる人間に対しては何をしても構わない、つまり適法か違法かなんて考えないでどんな行動や処分に出てもいいという感受性を導くことです。「法の外」では、合法性について考えないですむからです。この瞬間に、権力は「法の外」にリアルに逸脱します(ここは重要なので、別稿でもう一度考えます)。ところで、スポーツが戦争のシミュレーションの一面を持つように、犯罪は社会管理のシミュレーションの一面を持ちますが、最近の犯罪者たちはこの「法の外」という幻想を治安権力と共有している感があります。同じ感受性、あるいはシミュレートされた感受性です。私たちは、犯罪からも社会について学ぶことができます。

で、格差容認発言に戻りますが、あれは幻想の階層化を実体化しようという作戦、要するに「現実に『法の外』に置かれるべき階層が存在する」という合意を、行政能力をフルに行使して作り出そうとする高度な(というかサイテーな)政治判断の表現ではないでしょうか。しかも、メディアがこの数年一生懸命に煽ってくれたおかげで、こうした「法の外」の階層をイメージすることは実に容易になりました。「フリーター」から「ニート」への一連のイメージの流れがそれです。これらの言葉がメディアに登場したとき、そこには必ず「社会の寄生虫」、ろくに働かないで社会に寄生しているやつら、というイメージがくっついていました。この十年、若者にろくに就職口も与えなかったくせに何をぬかすか、という気がします。それにもともと社会というものは、寄生虫の寄り集まりみたいなもんです。資本家は労働力に寄生し、近代国家は資本主義に寄生して、ラクな生き方を見つけたのです。なのに、なぜ「ニート」のイメージが階層化の核になるかと言うと、行政側から見て「ニート」があまりに「無所属」だからでしょう。会社中心主義で市民社会を編成してきた戦後の行政は、組織への「所属性」を拠り所にして管理・徴税・福祉・教育といった政策を実行してきました。日本の行政は、まだこの方式を捨て切れていません。学者も同様です(しかも派閥や党派性が大好きな連中です)。こういう社会では、片岡義男さんが『日本語の外へ』で指摘されたように、言葉も「所属性」を基盤にして成長します。戦後の日本語は、所属のための言葉です。

しかし近年になって、経済のレベルで現実として会社が市民社会の核であることを放棄し始めた途端、政治は社会の輪郭を見失ってしまったようです。そしてその際、会社に(あるいは組織一般に)所属しないひとは、行政にとってあまりに無表情で、言葉も届かない存在として、いわば行政みずからの「影」として浮かび上がってきます。おそらく「ニート」のイメージに投影されているのは、この「影」であり、行政自身の視力の無能さです。政治はこの「影」におびえています。行政やメディアや大学当局が投げかける「不審者」という言葉は、意訳すれば、「所属が審らかではない者」という意味を持っています。そして「所属が審らかではない者」は、現在の政治にとって「言葉の通じない者」、何を言ってもわからない者でもあります。言葉が通じなければ、内面もわからないから、矯正や陶冶の対象にもなりません。だから一旦「法の外」へ追放するという身振りで応対せざるをえなくなったのではないか。ある意味、行政としては捨て身で苦肉の策ではあります。なぜなら、「国民個人個人の人格の掌握」という統治の重要な拠点を放棄したに等しいのですから。「ニート」とは、政治にとっての「非人格」「非人間」を意味します。そして、一旦生まれてしまったこの「非人格」のカテゴリーには、実際のニート以外の多様なひとびとを投げ込むことができます。人格を掌握する必要を政治が放棄したから、「不審者」は誰でもここに含まれることになっちゃうわけです。(「不審者」「犯罪予備軍」といった言葉にはまた別のイメージのつながりもあります。これも後に考えたいです。)

また余談になりますが、日本の近代文学史上最高の「ニート」、つまり「無所属の寄生者」は、『吾輩は猫である』のあの無名の「猫」だとぼくは思っています。「先生」の家に寄生しながら、家族に所属しようとはしません。だから、ずっと名無しのままでも平気。そして、堂々と人間の営みを批判してゆきます。漱石の作品にはよく「無所属の寄生者」が登場しますが、一貫して言えることは、それらの登場人物(動物)は極めて鋭敏な近代の批評家であることです。漱石自身、実生活において、組織に所属することに対して警戒し続けていました。大学もやめて、後に博士号も拒否しつつ、新聞に寄生して書き続けました。彼の神経症的な要素は、「安易に所属してたまるか」という強い意志の反動に見えます。社会の真の批評家であるためには、所属への警戒を怠ってはならない、と彼は考えていたはずです。だからぼくは、もし本物の「ニート」が出現したら、そいつはきっと相当なつわものだと思います。「ニート」、すなわち「無所属の寄生者」は、その存在において、現代の鋭敏な批評家になります。だからなおさら、行政は「ニート」(のイメージ)を階層化のターゲットにしたがるのです。
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法の外(1)

(5月4日の記事を少し書き直しました。青木)

このブログの中で池田さんも書いているし、松沢呉一さんのメルマガでも指摘されていたのですが、最近のデモに対する警備って不必要なまでに厳重で、デモの人数と同じくらいの警察官がつくんですね。これじゃ、みんなビビるよな。早稲田の時の様子は、不当逮捕抗議のHPに掲載されている写真から判断して下さい。

オウム真理教事件以前は「公安廃止論」まであったのに、なんでこんな世の中になっちゃったかって考えると、オウム事件の時に弁護士や法律家たちが社会風潮に流されて、違法捜査の問題とかをおざなりにしたツケがまわってきている気がします。このブログを読まれている方には、オウム事件当時の吉本隆明さんの発言を読み直すことをお勧めします。この時期に弁護士たちが間違ったかじ取りをしたことが、はっきり指摘されています。実際、裁判の経過を読んでも、今や弁護士も司法も機能不全という感じです。

その上、日本のような議院内閣制の国ではもともと立法が行政と癒着しやすい。ヘボな法案がひょこひょこ出てくる現状は、立法府が正常に機能してない証拠でしょう。現在、日本では三権分立がきちんと機能していません。実感としてそう感じます。民主主義の再構築を考えるのならば、まずここをしっかりさせなきゃいけないはず。評判の悪い「戦後民主主義的精神」といった観念上の問題以前の、リアル・ポリティックにおける緊急な課題です。数年後に始まるであろう裁判員制度が今後の民主主義のあり方にどう作用してゆくか、実はこれも気になってます。

今の日本では行政権の突出がえらく際立っている、とぼくは感じます。「国家」という言葉から普通のひと(ぼくもそうです)がイメージするのは、ほとんど行政の権力ばかりじゃないかしら。行政権が特異に突出した国家の代表例は、ファシズム国家です。ファシズム国家とは、基本的には、社会を常時「臨戦態勢」に置く国家です。そうすることで、行政権の優位がぎりぎりまで保たれます。しかし「臨戦態勢」を正当化し維持するためには、国外および国内に強い搾取・差別・侵略の構造を作り出すことを必要とします。第二次大戦当時は、重工業の独占支配と民族差別的なイデオロギーが核になったけど、現在なら当然、情報産業の支配と情報操作がひとつの大きな核になるはずです。それに、こういう行政的な権力の突出という傾向は、別に国家規模だけで始まるわけではなく、学校や企業、メディアでの表現の規制や「自粛」(日本の大手メディアの得意技)からも始まります。半ばマジな皮肉を言わせてもらえば、早稲田大学も自分で身勝手な「臨戦態勢」の幻想を作り出して、下手くそな情報戦術を使いながら、「不審者」の排除などという差別構造を生み出したと言えます。まあ、戦うべき相手を思いっきり間違ってるんですけどね。

今回の早稲田の不当逮捕事件への抗議の連帯メッセージの中に、コーネル大学の酒井直樹さんから寄せられた次の一文があります。

「日本におけるネオリベラルな改革と全体主義的趨勢を、いまアメリカ合州国で進行している全体主義的改革とともに拒絶することは絶対に必要なことです。アメリカ合州国における大学の自由への抑圧が1930年代の日本のそれと不気味な類似を示していること、このことへの危惧を私は数多くの講演において表明しています。」

海外からクールな視線で見れば、今回の早稲田の騒動も含めて、日本の昨今の趨勢が「全体主義的」、すなわちファシズム的であることがはっきりわかるのでしょう。早稲田の教員は、この酒井さんの文章をどれだけ理解してるのか。今からでも文学部の内部から自浄作用が起これば、大学の存在意義が大きく変わるんだけど、期待するだけヤボなのかな。早稲田も大手メディアだしね。でも、まず自分らで何とかしてみろ、とだけは言っておくぞ。

で、ひとまず話を日本の国内に限定しますが、たとえ幻想的であれ「臨戦態勢」を作り上げるためには「差別」が必要で、その際、差別する側から差別される側に向かうベクトルで「法の外」という幻想、つまり法の庇護から排除するという共同観念が侵入してきます。ぼくが「不審者」「犯罪予備軍」「ニート」といった言葉が流布する背景の奥に感じるニュアンスは、この「法の外」という脅迫的かつ強迫的な(実はそれだけじゃないんだけど)幻想領域なわけです。じゃあ、現在における「臨戦態勢」とは何か。そこから生じる差別の行方はどこに向かうのか。長くなりましたが、やっとここから本論に入ります。ぼくの生活実感を出発点にして、書いてゆくつもりです。
posted by aoki at 13:16| Comment(5) | TrackBack(1) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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