2006年06月19日

過剰適応(5)/青木

さて、教訓2:「日本の(大学)社会は、基本的にコネと人脈を中心にまわっている」についてですが、これを説明するには、なぜぼくが大学に残らなかったかを語るといいかもしれません。博士論文まで書いてなんで大学に残らなかったかと不思議がられることはよくあるのですが、答えはカンタン、ぼくには非常勤講師の口ひとつなかったからです。ただしこの事態は、早稲田の大学院内部でもやや例外的なことかもしれないので、あくまでもぼく個人のケースとしてお読み下さい。

大学内部では常識でありながら、大学の外ではあまり知られていないことに、非常勤講師の雇用の問題があります。非常勤のコマというのは、基本的にほぼすべてコネでまわっています。知り合いから知り合いへと受け継がれるわけです。具体的に言うと、指導教官が担当の院生のためにコマを確保したり、先輩から後輩に受け継がれたりするわけです。ぼくもドクター・コースの終り頃は教員公募の採用告知などよく見てましたが、哲学・思想関係での非常勤講師の公募というのは一回しか見たことありません。応募しましたけど、落ちました。

よくメディアでは、だいたい九十年代以降、大学は人件費削減のため専任の教員を雇わなくなり、非常勤の教員のコマを増やしたといったことが書かれています。これも大問題なんですけど、ぼくが大学院に在籍していた当時の実感では、非常勤のコマが増えた感じはしなかったです。増えた専攻もあったのかもしれないけど、哲学に関しては減ることはあっても増えてはいなかったんじゃなかろうか。哲学の教員採用は本当に少ない。専任の募集を見ると、「環境ナントカ学」とか「生命ナントカ学」とかいう名目がつくと多少あったんですけど、ぼくが研究していたのはバリバリの近・現代哲学だったので、専任の公募も少なかったです。

さらにぼくの場合、ぼくの上の世代の先輩たちがまず専任教員になれなかった、という事情があります。ほとんどの先輩が非常勤でした(たぶん今でもそう)。非常勤は給料が安いし、雇用期間も大体2年くらいと短期ですから、先輩たちはどうしても掛け持ちします。そうしないと、先輩たちも食っていけないのだから、当然です。そのため、先輩たちのところで非常勤の口が留まってしまって、コネがぼくのところまで下りて来なかったわけです。実際、ぼくは今の今まで大学の非常勤を勤めたことはないですし、非常勤の口を斡旋してもらったこともありません(高校の非常勤は勤めてます)。まあ、ぼくの性格(生意気)と体質(病気がち)にも問題があったのかも。たぶん理由は、そうしたこと全部でしょう。

非常勤ではなく、もういきなり専任を狙うしかないと考えて、専任教員の公募に応募したこともあります。でも通らなかった。それに専任の採用の条件には「大学での非常勤講師○年以上の経験があることが望ましい」などと書かれているのも多いのです。院生にとって、非常勤のコマの確保は死活問題です。非常勤を勤めていれば、一定年限は奨学金の返済を猶予されるという事情もからんできます(それ以外の理由でも、認められれば一定年限は奨学金の返済は猶予されますが)。

一般には博士号取得後、さらに文系の場合は博士後期課程を満期退学したひとも含めて、まだ専任の職につけないひとを、オーヴァー・ドクターと呼びます。早稲田の文学研究科の場合、オーヴァー・ドクターも、大学に籍を残しておきたければ、一応残すことはできたはず。でも、学費を取られるんじゃなかったかな。大学院在籍時の半額くらいだったのでは。ぼくは払えなかったので払っていません。論文の最終審査までの約1年半の期間のぼくの身分が自分でもよくわからないのは、そのためです。現在、日本の大学ではこのオーヴァー・ドクターが急増しています。

上に書いたように、院生とオーヴァー・ドクターにとって、非常勤のコマの確保は大事なことです。そして、その肝心なコマは、基本的にほぼすべてコネでまわってきます。おそらくこの場面において、大学における過剰適応の問題が浮上してきます。指導教官や先輩に楯突いたら、非常勤のコマさえもらえなくなる可能性があるからです。つき合いも増えましょう、下働きもさせられましょう、セクハラも横行しましょう。不健全な社会です。構造的にそうなっているのです。このしがらみを断ち切るのは、容易ではありません。実感として、ぼくはその難しさをわかっているつもりです。いつのまにか、自分もしがらみの一員になっちゃいますし。

ここまでぼくは研究の楽しさや幸せについて(いささか故意に)強調してきましたが、人間関係という側面から言えば、大学院なんて実にうざったい世界です。本音を言えば、大学と縁を切ってぼくはせいせいしたところもあるのです。とはいえ、大学の外も別に大して変わりはしません。どこもかしこもコネと人脈の世界です。もうどうせだったら、コネだけで「日本」を運営してって下さいよって感じ。ぼくは抜けます。

大学も企業体ですから、やってることは大学の外と大きな変わりはないとも言えますけど、ただ大学には外から見えづらい閉鎖性があるから、余計に悪い空気が濃くなって、気分が萎えてきます。妙にインテリ意識のある連中は、権力的にふるまい出すと、手に負えないほど醜悪になります。本来、過剰適応を云々すべきなのは、こいつらかもしれません。企業の利害に尻尾を振って順応してゆく社畜ども。彼らは善意すら抱いて、他人を抑圧する理屈とメカニズムをせっせと作り出してゆきます。大学の内外を問わず、団塊の世代あたりにこうした手合いが多く見られるのは、偶然なんでしょうか。それはともかく、バカが権力を持つと大変なことになるのは歴史的にも自明ですが、権力を持つとひとは誰でも必然的にバカになるのだろうか。この問題は、ぼくが一生かけて追求したいテーマのひとつであります。

大学に籍を残すことの利点と言えば、それはもう「所属性」の確保に尽きます。大学に籍を置いている、あるいは大学で教えている、と言えば、社会的なメンツが保たれます。実際、ぼくは今でもよく「大学にはまだ行っているんでしょ」とか「どこかの大学で教えておられるんでしょ」と尋ねられます。「いえいえ、もう行ってないです。教えてもいません。フリーの文芸批評家です」と答えると、「不審」の目で見られます。フリーの文芸批評家なんて、職業として世間に認知されていないのですね。実際、それだけでは食っていけないし。長年大学院にいながら大学に残っていない、というだけで、「社会不適応」の烙印を押されかねません(否定はしませんけど)。大学に所属しているということは今でも、特に高齢のひとに対しては、十分にステイタスとして通用します。この「所属性」の意識が、大学人の社会意識の希薄さと歪みをさらに助長します。

早稲田の文学部は、数年後に学部を大規模に再編する計画を立てています。おそらくこの時期、非常勤を中心に多くの切り捨てや囲い込みが起こると予想できます。大学が本格的に「収容所化」する大きな転機になりそうな気がします。大学院の内部でも適応への内圧が高まっているのではないでしょうか。今、早稲田の文学研究科に在籍している方々は、この時期までになんらかの覚悟を決めておいたほうがいいかもしれない。ぼくが今になって後輩たちに言えることは、「大学なんて出るも地獄、残るも地獄。同じ地獄なら、『当事者』としての自分の権利を自分で見つけて主張したほうがいいんじゃないかな」ということです(あと、健康には本当に留意してね)。たとえどん詰まりに見える状況の中でも、大学の都合に振り回される「被害者」という立場を突き破って、研究者としての「主権」を発見していってほしい。実際の方向性としては、「大学院を大学の外部に社会的に開いてゆく」のがいいと考えます。たとえば、今回のビラ撒き不当逮捕事件などを、趣味でもいいから社会・歴史・思想といった観点から研究するサークルとかできればいいんじゃないでしょうか。人文科学的には面白いテーマになると思うんですよ。その際、このサイトをいろいろ利用してもらってもいいわけです。

今回のビラ撒き不当逮捕事件の当該のひとは早稲田の学生ではなかったのですが、それにもかかわらず多くの抗議の署名やメッセージが集まっていることに、ぼくはわずかながら希望を見いだしています。大学の問題を社会の問題として考えてくれているひとが、まだ大勢いることがわかったからです。この事件に対する抗議は、本当の意味で大学を社会に開いてゆくひとつのきっかけになるとぼくは考えています。院生やオーヴァー・ドクターの生活が改善されうるとすれば、やはりこの方向しかないと思います。だからなおさら、学外者を「不審者」の目で見る大学当局の姿勢には反対します。現在の大学当局の姿勢は、大学を社会的抑圧の機関として編成する方向に向かっていることを示しています。その抑圧は、内側にも外側にも向いているのです。

話がかなり散漫になってしまったのだけど、「過剰適応」の記事は、今回で終りにするつもりです。次回何を書くか、実はまだ決めていません。一本、書評、というかお勧めの本を紹介しようかな、とも考えています。
posted by aoki at 00:53| Comment(7) | TrackBack(0) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
すいません
私も最近「気圧ばて」状態に
なってしまいました

私もたしかによく知らない人間に
「最近はなにしていらっしゃるんですか?」
とか訊かれたりしたら
ムッとして「バイト(怒)」
とか言ってました

そうそう知りあいから
こちらの募集要項を紹介されたんだけど
http://cswc.myvnc.com/fellow1.htm
どう思います?
これの当事者には悪いんだけど
なんか印象としては
「世のなか不思議だなあ」
という感じです。

かといってこういう機会を無視すれば
仕事はどんどん減っていくし

労働力が流動化すると
過剰適応が「適応」の必要条件
ということにもなりかねない
とりあえずそのスパイラルに
まきこまれないためには
とりあえずクライアントに喧嘩売るとか
しないと駄目かも
それで面白がって採用してくれる場合とか
あれば良いんですが
(角川でバイトのときはそれで採用されまた気がします)

Posted by 池田 at 2006年06月19日 04:11
コメント、ありがとう。東工大の募集要項、見てみました。

「世界文明センター」__なんちゅうネーミングじゃ、コワイぞ、テロに狙われるぞ__の方針がなんなのか、これも大学経営の方向転換の一環なのか、という疑念はあるにせよ、非常勤の公募が増えることには、ぼくは賛成です。もっと公募の割合が増えるといいと思う。コネにもいいところはあるんだけどね。緊急避難的な場合とか。でも、コネばっかりで、しかも口そのものが減ってくると、本当に過剰適応が「適応」の必要条件になっちゃう。池田さんが面接でケンカしてくる分には、応援しますよ。いや、ケンカしなくてもいいけど、笑。

でも「世界文明センター・フェローの称号」なんて、いらないね。その分、金よこせ。あと、オーディション・面接がある場合の交通費が自己負担というのはバカだ。遠くから来る人のことも考えろ。結局このあたり、大学人は現在の「貧乏」の状況をまるでわかっていない気がします。と、ぼくもケンカを売ってみました。

ところで「気圧バテ」はあくまでぼくの仮説だから、あまり信用しないでね。単に湿度の変化のせいかもしれないし。ではでは。
Posted by 青木純一 at 2006年06月19日 07:49
いやいや「気圧バテ」仮説は、私もひそかに持っていたので、どちらかというとわが意を得たりという感じです。

東工大ですが、ネーミングの件は笑ってツッコミ入れれば済む話なんだけど、それよりも「非常勤講師」と「助手」の仕事を抱き合わせ、というのが非常に引っかかっているのです。しかもこの給料で。なんでしょうか、今ではこういう雇用形態がふつうになっているんですかね? そこらへんも面接にいってきいてみるつもりです。


Posted by 池田 at 2006年06月20日 01:48
あっ、そうか。お金のほうばかり目が行ってた。われながら、さもしくなったなあ。問題は業務依託契約のほうですね。

これはかなり、問題アリかも。「助手」的な業務の仕事はとても大変だと思います。その労働条件は公募時に明示すべき。さもないと、いいように事務的な仕事を押しつけられます。非常勤のコマで釣っておいて、実質はセンターの下働きを求人しているのかな。よかったら、この点は本当に追及してみて下さい。

もちろん、スルーもありですが。公募のための書類集めって、結構かったるいんだよね。不合格が続くと、特に。
Posted by 青木 at 2006年06月21日 00:30
青木さん、池田さんおはようございます。初めて書き込みします。
青木さんがおっしゃることを一般化すれば、現在の大学の教員採用問題というのは、大学が近代化されておらず、むしろ市場原理主義を導入すべきでさえあるということだと思います(もちろん、このような大学の状況はタダノ教授問題として一般にも知られては居ますが)。
最近、一部の非常勤のひとたちが(も)「ネオリベ批判」とか言っていますが、ぼくは、大学という「市場」でネオリベ批判てのはアリかねと思っておりました。そういうことを言うのは、むしろ、青木さんも言うところの大学の「前近代性」を追認・肯定することに(さえ)なるのではないかということです。
ところが、東工大の例は、ついに、非常勤採用レベルにおいてネオリベ的雇用形態が出てきたということですかね。この募集要項を見るに、これは現在の非常勤の待遇の切り下げ、労働の加重化でもありますが、にもかかわらず応募者は見込めるということなんでしょうね。これは、かなりすごい。橋爪はともかく、井口時男教授は何を考えて、この公募にコミットしているのかね。聞いてみたいものです。
ちょっと考えてみなければと思い、何も積極的な考え出ませんが、書き込みました。今後もよろしく。
Posted by すが秀実 at 2006年06月26日 09:00
>すが秀実さま

おお、ご投稿&問題提起ありがとうございます。

大学の非常勤講師で問題なのは、前近代の徒弟制的なフィクションを維持したままネオリベ的な状況にシフトしている点でしょう。つまり非常勤講師というのは、いずれ業績をあげて教授などになるべき「半人前」のスタッフであり、いつまでも非常勤などやっている者は、人間としてなにか欠陥でもあるのではないか、というフィクションを払拭できないまま、非常勤講師を安い労働力として活用していることが問題なのではないでしょうか。

それで思いだしました。これは学生がぼくに言っていたことですが、その学生が早大文学部にある教員ロビーの受付で「池田先生いらっしゃいますか」とか訊いたらしいんですが、しばらくしてから嫌な感じで「ああ、非常勤でしょう」などと言われたそうです。あまりにもベタでにわかには信じられない話ですが、学生がぼくに嘘いってもしょうがないので、たぶん本当でしょう。たしかに大学の事務なんていうのは前述のフィクションなどがなければ、やってられない仕事ではあるんでしょが、ちょっとひどいですよね。

もちろんぼくの知りあいで教授やっている人間(だいたいスガさんの知人とかぶりますが)はそんなに馬鹿じゃないと思います(たぶん&もちろんそれは相対的には彼らが過剰適応する必要のないポジションにいるからでもあるんですが)。少なくともぼくは、教授より非常勤のほうが、安い賃金で働いている分だけ単純に偉いと思っている(まあ自分でそう思うのも切ないですが)し、彼らの一部もそう思っているふしがあります。まあ本気でそう思っているかどうかわかりませんが、少なくともそういうことにしておこうとは考えてるはずです。つまり「恥」を知っているわけです。

そうなると、やはり気になるのは、東工大の公募の件です。これはまさに徒弟制のフィクションを維持したまま、人材を「非常勤」としても使いたおそうということでしょう。いったい業務委託契約の「フェロー」なんてどういうことなんでしょう?  最近はこういうの珍しくないんでしょうか。けっきょく応募書類を提出して、レターのなかで多少問題提起的なことも入れておきました。あとは面接できいてみようかと思います。

話が脱線してしまいました。スガさんの「『ネオリベ批判』批判」については、また後日ということで。

Posted by 池田 at 2006年06月27日 01:21
すが様、池田様、コメントありがとうございます。

この記事を書いているとき、実はネオリベ云々という視点は持っていませんでした。院生およびオーヴァー・ドクターの存在を社会から目に見えるものにして、その過程で、彼らが大学の都合にふりまわされる「被害者」としてではなく、研究や言論の当事者としてなにかしら主権を獲得する方向はないかなあと考えていました。具体的な戦略まではうまく描けなかった憾みがあります。

大学の前近代的体質やネオリベ化の問題は、非常勤を核にして考えるとたしかに構造的に見えやすそうですね。大学側からすれば、非常勤として複数の教員を雇って競争させて、大学の体質に合った人材だけを専任として確保する。非常勤の側からは、とにかく業績の数を稼いで現状に対応する。こうした状況が想定できますが、この方向にもぼくは違和感を持っています。そこであえて、大学の内部で囚人化されかねない院生やオーヴァー・ドクターの言論活動の権利を浮上させたかった。大学を社会統治のモデルとして見るという試みの中で、まずもっとも矛盾に直撃されそうなひと達の可能な権利について考えたかったわけです。もうひとつ大学生の問題、特に創作系の学生の立場についても、いつか考えたいと思っています。

大学のネオリベ化などの問題に関して、ぼくの記事の方向性に批判などありましたら、どうか遠慮なくコメントして下さい。そうした問題にあまり配慮していなかったので、ぼくも大いに参考にしたいです。
Posted by 青木純一 at 2006年06月28日 05:37
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