2006年06月04日

過剰適応(2)/青木

前回はハンガリーの作家ケルテース・イムレの小説『運命ではなく』を取り上げて、過剰適応の話を進めました。ハンガリーの、それもナチス占領下時代の話となると、「今の日本とは関係ないじゃん」と思われるかもしれないけど、ケルテースと似た観点から過剰適応の問題を扱っている作家は日本にも、それも若い世代にいるのです。中村文則さんがそうです。中村さんの作品の主人公の多くは、養子体験を背負っています。そして、よく読むとわかるのですが、この主人公たちは、ひとまず本能的に環境に順応しようとする過剰適応の徴候を見事に示しています。

ケルテースと中村文則さんの文体を簡単に比較してみましょう。訳者の岩崎悦子さんが指摘していることですが、『運命ではなく』では「……と思われる」「……のように見える」といった挿入的な文章がよく出てきます。中村文則さんのデビュー作『銃』の中には、「……よくわからなかった」という終り方をする文章がたくさん出てきます。どちらも自分で自分の欲望や意志を確認しなければすまない心のあり様を表していると思えますが、「……よくわからなかった」という分だけ、中村さんの主人公のほうが重症と言えるかもしれません。基本的に中村文則さんの作品の主人公たちは、自分の気分や欲求でさえ自分で所有しているという実感を抱いてはいません。適応のために心のエネルギーの大半を使い果たしているのです。そのような状態からいかにして自分の生きる権利を作り出すか、ここに中村さんの作品の大きなモチーフのひとつがあります。

村上龍さんの『コインロッカー・べイビーズ』、島田雅彦さんの『夢使い レンタルチャイルドの新二都物語』と、日本の現代文学には「孤児の系譜」と呼べる一連の作品がありますが、中村文則さんの作品は現在その先端にあると言えます。とはいえ、中村さんの作品に出てくる養子体験は、現代人の精神状況のメタファーと捉えたほうがいいでしょう。実際に養子になったひとが皆過剰適応するわけではないでしょうし、養子になったことのないひとでも過剰適応に心覚えがあるはずです。ぼくはひょっとしたら今の日本の若年層全体に、中村文則さんが描くような過剰適応的な心の状態が拡がっているのかもしれないと考えることがありますが、この点は今のところまだ確信を持って主張することはできません。

ただ、今の日本では「見捨てられてしまう」という恐怖が、若年層に限らず、社会の全体に拡がっている気がします。一体、何に「見捨てられてしまう」のでしょうか。社会か、会社か、家族か。そのいずれかである場合もあるでしょうが、より根本的なところでは「生活」そのものに見捨てられるという恐怖だと思います。貧困や世間体といった実際的な問題から、鬱や暴力といった精神的な問題まで含めて、いつ自分が人間的な生活から非人間的な状況へ見捨てられるか、あるいは自分で自分を見捨ててしまうか、という恐怖です。こういう恐怖が社会に蔓延すれば、「法の外」への脅迫もよく効きます。

ぼくは過剰適応そのものを単純に「悪」だとは考えません。適応の能力は時に生き延びるため、食ってゆくための有効な力ですし、そもそも普通の適応と過剰適応との区別の境もよくわかりません。ただ、社会が適応の内圧を必要以上に高めてゆく状況には、必ずその奥に政治のファシズム的な意志が働いていると考える理由はあると思っています。そして、今の日本の状況は、その格好のサンプルと言えるとさえ思っています。適応への内圧を過度に高めてゆく社会を、ここでは「収容所化する社会」と呼ぶことにします。

収容所化する社会のお手本は「早稲田大学」です(と、ここで一旦、早稲田に話をオトすわけであります)。まず、専任の教員と非常勤講師との間の賃金と待遇の違いは、来るべき格差社会の予想図、というか、もう壮大なカリカチュアと言えるレベルに達しています。ビラ撒き不当逮捕事件とその後の経緯を見ると、学内統治のファシズム的な指向を読み取ることもできます。そして、おそらく内部では、大学院生とオーヴァー・ドクターを中心に、過剰適応に関わる心の問題が浸透していると考えられます。大学を社会統治のひとつのモデルとして見ることができそうです。

もちろん大学の悪口だけだったらいっぱい言えるし、それもスゴク楽しいんですけど、肝心なことはどこに現状からの突破口を見いだすか、であります。ここはじっくりと考えなければなりません。権力が人文科学から身をふりほどきつつある(とぼくが仮定する)現状で、たとえば文学部や法学部が、収容所化する社会に対する抵抗の拠点となることは、以前にもまして難しいはずです。学問のレベルでも、実践のレベルでも同じことです。大学自体が収容所化しつつあるのですから、八方ふさがりと言ってもいい状態。

もしなにか切り口があるとすれば、現在大学の中で見殺しの目にあっているか、いずれ「見殺しの当事者」として編成されようとしている人々、おそらくはその両方の矛盾を同時に背負っている人々の声を聞き取ることではなかろうか。たとえば、大学院→オーヴァー・ドクター→非常勤講師というキャリアの過程で生き埋めになりつつある大量の研究者たちの声です。とはいえ、ぼくが聞き取りたいのは、彼らの不安や不満の声だけではありません。彼らの「幸せ」について、皮肉で言うのではなく、「収容所の中の幸せについて」彼らが語る声も聞いてみたい。

と言ってもアテがあるわけではないので、次回ではぼく自身の記憶を振り返ってみることにします。
posted by aoki at 17:20| Comment(0) | TrackBack(2) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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