2006年05月25日

ビラまき青年逮捕事件に対する池田のスタンス(2)

■前回のエントリーで、昨年末におきた早大ビラまき青年逮捕事件に対しては、左翼的なスタンスも批評的なスタンスもとらないことと、その理由を述べた。ではこの事件に対して、私はどのような態度を選択するのか。

□当面それを「当事者主義」と名づけることにする。前回も少しふれたが、人間は様々なトピックにおける「当事者」として生活している。あるトピックにおいて革新的でも、べつのトピックにおいては保守的かもしれないという話だ。そう考えると、人間は無数のトピックにおいて、その場所の「当事者」としての態度を選択しているということになる。

□それをふまえて、検証、疑問あるいは抗議というような言説の射程を、当事者としての私がみえている範囲に削り込んでいくという作業を、やってみたいと思う。



■法律の当事者■
□まず私は、日本国の法律にしたがい、日本国で生活を営んでいる。つまり法律というトピックにおいては、私はつねに当事者である。

□早稲田の逮捕事件は、建造物侵入罪の現行犯として大学教職員が逮捕している。これがアリだとすれば、つまる例えばモグリ学生をみつけた教員が自由に身柄を拘束することができる。そのようなことができてしまうのではないか。さらには、私が早稲田大学にいる知人に会いに行くために、大学構内に入ったとする。抗議文の「呼びかけ人」などをやってしまったため、大学当局から目をつけられていると仮定しよう。その場合も、教職員の裁量で自由に身柄を拘束できて、警察にひきわたすことができるのか。今回の私人逮捕によって、そのような疑問がでてきても不思議ではないはずだ。

□このような疑問は法政大学の29人大量逮捕事件の後、さらに強まっている。


■大学教員あるいは文芸批評家として■
□私が早稲田大学の「ビラまき青年逮捕時件」を知ったのは、呼びかけ人であるスガ秀実からの連絡による。そしてすぐに上記のようなことを考えた。さらにこの問題をスルーしてしまうと、今後教員活動あるいは言論活動において「公共性」がどうのといった話ができなるなると判断。つまりこの問題を無視してしまうと「私は個人の内面しか興味のない趣味の文芸評論家です」というようなスタンスをひきうけてしまうことになる。そんな面倒なことはしたくない。

□また、ここ数年の授業では「美学」を中心テーマにしてきた(昨年度は微妙だが)。そして美学の専門家にとっては常識的な話かもしれないが、「美」について考えていくと、芋づる式に「公共性」や「政治」の問題が入ってくる。結果として公共性や政治的領域についても、学生にそれらしいことを言ってきたはずである。したがってこの問題から逃げてしまうと、それまで教えてきた学生に対する「やましさ」を背負い込むことになる。私はそんな面倒なことはしたくないのである。


■元早稲田大学教職員として■
□こまったことに、今回の事件をおこした教職員というのは、元同僚だということになる。もちろんこちらは3年契約の非常勤講師である(オプションで4年になったが)。話をしたこともない専任のスタッフを「同僚」というのは、そうとうな違和感があることも事実である。しかし、抗議文掲載HPやスガ秀実氏主演の『レフトアローン』などですっかり「悪役」としてお馴染みになってしまった安藤氏とは、なんども話したことがあるし、その際は非常にジェントルな方だという印象しか残っていない。その印象が記憶として残っているまま、彼らを「敵」として表象する気はない。したがって「敵対性」の原理およびその前提となっている「表象主義」の方針は採らないつもりである。それよりも彼らには「いったいどうしちゃったの?」という話から入るべきだと考えている。


■呼びかけ人として■
□この事件を知ったのは、呼びかけ人の一人であるスガ秀実氏からの電話によってである。確認するまでもない話だが「呼びかけ人」あるいは「発起人」とは、創造説の神話を前提とした概念である。日常のなかになにか問題をみつけだし、人びとの目の前に提起するためには、そのような問題=トピックを創造する「第一の」主体が必要だという発想を前提としている。

□スガ氏から連絡を受けたときに私は「呼びかけ人」でも「賛同人」でもどちらでもスガ氏の都合のいい方に自分の名前を使ってくれという話をした。そう言った方が真の第一の主体であるスガ氏が動きやすいだろと考えたからである。もちろんそれは親切心からではなく、遅ればせながら事態の緊急性を察したからだ。そのときの話では「いくらなんでも池田が呼びかけ人というのは面白すぎるので賛同人かな?」という内容であった。たしかに私がスガ氏とともに「呼びかけ人」をやったとしても、桃太郎のお伴のようにしかみえないだろう。批評家としてのキャリアと「格」を考えたら、スガ氏が桃太郎なら私は犬、キジ、猿のようなものである。したがって、私も賛同人が適当かと思っていた。それでもなる人がいない場合のことを考えて、基本的にはどちらでもいいと応じたのである。それが諸事情のため、結果として呼びかけ人になってしまったということだ。

□そのような呼びかけ人制度がいいのかどうかについては、呼びかけ人自身からも疑問がでている。いまのところ責任主体としては必要だろうという理由でこの形式がつづいている。しかし状況によっては、この呼びかけ人の存在が、この事件について広く考えることの制限要因になる可能性もあるはずである。





■まだまだいろいろなトピックがあげられるはずだが、きりがないので今はここまでにする。また、なにぶん当事者の記憶にもとづくものなので、事実の改ざん、捏造があるかもしれないが、それはそれで気づいた時点で微調整することにする。

□以上のような状況をふまえて、まずこれから確認していきたいのは、事件の現場でいったい何が起きたのか、それについて専任のスタッフや学生は知っているのか、知っているとしてどのように考えているのか、というようなことである。次回のエントリーは事実確認から入りたいと思う。




■補足
当事者主義という発想は、上野千鶴子・中西正司による『当事者主権』(岩波新書)からとったものだ。著者は、障害者の介助にたいするパターナリスティックな方針、つまり障害者は何か良い介助なのか自分で判断できないのだから専門家が判断してやろうという方針に対して、介助の当事者の主体的な選択による「自治」を主張している。このような主張は、直接的には今回の逮捕事件とは関係ないようにみえるかもしれない。しかし左翼的、批評的態度というのが、専業知識人によるパターナリズムではないかと考えれば、この事件に対しても、この本の主張するものと同じようなスタンスがとれるのではないか。

posted by ikeda at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 池田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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