2006年05月20日

ビラまき青年逮捕事件に対する池田のスタンス(1)

まず私はとくに左翼ではないと自己規定している。人は、あるトピックにかんして「革新的」だったとしても、べつのトピックでは「保守的」だったりするものだと考えているからだ。

たとえば、「国家」というトピックにおいて革新的な人間が「それ以前の共同体」というトピックについては保守的だというような状況は、じゅうぶんに考えられる。おなじように「セクシュアリティ」というトピックでは革新的な考えをもっている人間が、新自由主義的な状況に対しては寛容だったりとか、セクシュアリティについて保守的な人間が、その他の人間的「規範」に対しては革新的だというようなこともあるかもしれない。つまり、すべてのトピックにおいて革新的だというようなポジションを、たかだか身体的な存在にしかすぎない人間はとることができない。そのようなポジションをとる人間は、なにか壮大な幻想、たとえば幸福な無政府状態などを内面化しているのではないか。いまのところ私はそのように考えている。

したがってこの事件にかんしても、左翼的なスタンス(よく考えてみればそれが何なのかもよくわからないが)をとらないつもりだ。また、しばらくは「批評家的」なスタンスもとるつもりもない。ここでいう批評家的ポジションとは、事件の当事者として問題を解決する態度ではなく、その問題のありようを、その問題が(それとして)おこる条件にまで遡り、たとえば問題それ自身に内在する関係者の利害関係を暴露するような態度のことである。

今回の件で、最も簡単な方法で批評家になれる方法は「そもそも論」を唱えることである。「そもそもビラまきなどという行為はアナクロで自己満足的な左翼の様式以上の何ものでもないではないか」というようなタイプの見解のことである。メーデー弾圧事件の時もそうだが、ブログ等でたまにみかける主張でもある。いやまったくそのとおり。そう仮定してみよう。そもそも大学のキャンパスでビラをまくなんていう行為は、非効率的で時代錯誤だけではなく、迷惑でさえもあるかもしれない。しかし、そのことと、それによってビラまきの主体が大学の教職員によって「逮捕」されることとは、まったく何の関係もない。これがこの事件についての私の見解である。

それと同様に「この逮捕事件に抗議するということは、その逮捕された青年の団体の利益に荷担することになる。その団体が危険だったらどうするんだ」というような意見もあるかもしれない。まったくそのとおり。これもそう仮定してみよう。そもそも抗議文の「呼びかけ人」になるということは、当該団体に利用されることになるはずで、そのことがわからないで呼びかけ人にになることは、自分だけは心の清らかなつもりでいる独善的な知識人きどりではないのか。仮に当該団体がエゴイスティックで危険な団体だとしよう。この事件に抗議するということは、その団体の利益に荷担することになる。それでいっこうにかまわない。しかしそれは私が人間の利害関係に盲目だからではなく、そのことよりも、この事件を沈黙によって「了承」してしまうことの方がよほど危険だと判断したからである。つまり逆にいえば、この事件を考えるにあたって、当該団体にシンパシーや信頼をよせる必要はないのである。これもこの事件についての私の見解である。

もし、抗議文の呼びかけ人が当該団体の「仲間たち」のようにみえるならば、つまり呼びかけ人の行為がなにか「プライベート」なもののようにみえるとするならば、それは呼びかけ人が、呼びかけ作業を当該団体に「丸投げ」しているからである。これはひとえに私をふくめた呼びかけ人の怠惰によるものである。あるいは、問題をクリアカットする作業をさぼっていたからだとも考えられる。このトピック限定の共有ブログは、そのことの反省から思いついたものだ。それでは、いったい私はどのようなスタンスで、この事件にかかわろうというのか(つづく)。
posted by ikeda at 13:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 池田 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「そもそも論」は、先に池田さんが述べていた「機会原因論」のことと考えていいかしら。
Posted by 青木 at 2006年05月21日 14:06
>青木さま
まさしくそのとおりです
「そもそも論」は
カール・シュミットが批判するような
ロマン主義的な機会原因論の延長にあると思います
青木さんが言うような「人間科学から離陸する法」と
機会原因論的な認識や「裁判員制度」が結びつくと
なんだかものすごく危険な気がしますが

機会原因論については
『ネオリベ化する公共圏』の記事に書いたんですが
そのうちダイジェスト版をエントリーしようかと思ってます


Posted by 池田 at 2006年05月22日 12:14
裁判員制度__考えれば考えるほど不気味な深みにはまるんだよね。まだきちんと調べたわけではないから、憶測で語ることになっちゃうけど、現在の社会の流れの上に、市民を直接に司法に巻き込む裁判員制度を位置づけてみると、芹沢一也さんの言葉をそのまま借りれば、「主権者なき政治システム」(『<法>から解放される権力』209頁)としての新しい「民本主義」(民主主義ではなく)が仕上がっちゃう気がするのです。

ぼくたちはまだ確率論的な世界観というものに慣れていない。実際にひとりの市民が一生の間に裁判員になる確率がかなり低いとしても、この制度の場合、地震みたいに「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」という判断を基準にして考えないほうがいいと思うんです。くじ引き的な無作為抽出で市民の誰かがいつかどこかで「必ず」義務を担わなければならない制度が施行された場合、その時点で市民の全員が「当事者」とみなされる、そこには例外はない、と考えるのが妥当だと思います。

それにしても、こういう制度を施行しようとするなら、まず最初に国民投票で是非を問う必要があると思うんだけどなあ……。
Posted by 青木 at 2006年05月25日 06:30
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