2006年05月17日

学問から解き放たれる権力(1)/青木

まず以前の記事で書いたことをやや発展させながら、少しまとめておきます。現在の社会で起きている階層化の動きの中で、差別する側から差別される側へ向かうベクトルで「法の外」、つまり「法の庇護から排除する」という、幻想としての共同観念が生じます。この幻想の根底には、権力の編み目の中に「非人格」という奇妙な空白が開いてしまったという事情が見え隠れしています。会社中心主義が壊れた後の新たな社会編成の内部で生まれてきた行政の声の届かない領域、たとえば「ニート」というイメージで表象される領域を、統治は一旦「非人格」という空白のカテゴリーに囲い込んだのです。しかし、この「非人格」という空白は、行政にとっても危険な空白です。権力はこの空白を新たな統治のシステムで再編成する必要があります。システムの構築と同時に、新たな社会像が形成されてゆきます。たとえば「不審者」という言葉が指し示すのは、浮かび上がってきつつあるこの新たな社会像と関係しています。つまり、「つねに『不審な』階層が存在する社会」という像です。この社会像がうまく機能すれば、政治は社会を常に内的な「臨戦態勢」に置くことができます。しかしその際にも、統治は市民を「非人格的に」掌握する手段を継続すると予想できます。ただその手段を繊細にするだけです。政治は「人間(人格)」を放棄しつつある、というのがひとまずの結論です。

もちろん以上は、ぼくの仮説に過ぎません。しかし、検証する方法はあります。政治が「人間(人格)」を放棄する過程で起こる事態は予想できます。そのひとつは、権力が学問から解き放たれてゆくという状況です。ここで言う「学問」とは、ひとまず主に「人間」を探究する学問、すなわち精神医学や社会学といった人間科学(人文科学)を指します。大学がこれから置かれてゆく状況を考えるのにも、ぼくはまずこの事態を踏まえておきたいと考えます。最初に現在「刑法学」の内部で起きている変化を調べてみたいと思います。

今回取り上げるのは「ポストモダンの刑法理論」(前田雅英・藤森研『刑法から日本をみる』東京大学出版会、1997、23頁、以下この本からの引用はすべて前田氏の発言です)を自称する前田雅英氏のいくつかの著作です。前田氏の考え方は実は思いっきりネオリベで、その意味では突っ込みどころ満載なのですが、ぼくがここで目指しているのはネオリベ批判ではありません。あくまでも、権力が学問から解き放たれてゆく状況で起こる出来事の分析です。前田氏の立場は「実質的犯罪論」と呼ばれる立場らしいですが、そうした専門性にも今は係わりません。ぼくもよく知らないし。

のっけから結論を書いてしまうようなもんですが、前田氏の刑法理論の根本にあるのは以下の考え方です。

「私の考え方は、一言でいうと、刑法理論が、少なくとも二一世紀の前半は、いろんな意味で実質的な方向に動いていくというものなんです。その『実質』を担うのが法律実務家だと考えているのです。法律実務家の『価値判断』を尊重すべきだということなのです。もちろん、学者というのは、実務を少し離れたところから冷静に見ていて、具体的妥当性に振れすぎるのをチェックする役割は持ちますけれど、国民の規範意識を踏まえて、具体的事案に対して価値判断を行う作業に関しては、実務家を基本的に尊重するということです。」(『刑法から日本をみる』22-23頁)

うーん、わかりやす過ぎるぜ。この本を読む前にぼくは池田さんにメールで、もし権力が学問から解き放たれてゆくなら「刑法理論は統計から把握される社会像に合わせた功利的な実務に変容する。」と予想を書いたのですが、なんだよそのままじゃん。分析のし甲斐がない。ちなみに前田氏は『少年犯罪−統計からみたその実像』(東京大学出版会、2000)という著作を出しているくらい統計好きですが、統計の扱い方にはネット上でも多くの批判が出ています。ひまな方は、検索をかけてみて下さい。ぼくは統計操作よりも、統計そのものに与えられている意味合いのほうに関心があるので、データの真偽に関しては判断を保留します。なお「法律実務家」という言葉は、主に裁判官・検事・弁護士を指すらしいのですが、前田氏の念頭にあるのは特に刑事司法、つまり検察と警察、それに加えて裁判官といったところでしょうか。それはともかく、せっかくだから前田氏の主張をもう少し細かく見ていきましょう。

初期の理論的著作『可罰的違法性論の研究』(東京大学出版会、1982)をチラ見してみて、ぼくが理解できた範囲で言えば、その後の前田氏の刑法理論にも一貫しているのは、法律実務を重視した判例中心の法解釈という点と、あともうひとつ、後に問題にしますが、国民の意識なるものの重視という点です。刑法学の専門書はまさに専門用語の狂い咲きといった感じで、それはそれで元哲学畑のぼくには面白くはあるのですが、引用にはあまり向きません。註の中の前田氏の文章から、比較的わかりやすい一文を引き抜いておきます。

「客観的に一定の重さをもった物質を天秤にかけるのとは異なり、犯罪行為の違法性は、その国とその時代によって異なる国民の価値意識を背景に、裁判官により慎重に決定されざるを得ないのである。」(『可罰的違法性論の研究』529頁)

ちなみに「可罰的違法性」というややこしい概念が実際に法廷で持ち出される事案の多くは、公安・労働事件です。「ビラ貼りと建造物損壊罪との関係」では、前田氏は「一応一〇〇〇枚程度が相対的軽微型の目安」(『可罰的違法性論の研究』534-5頁)と述べています。何言ってんだかよくわかりませんが、たぶんビラ千枚程度貼るだけなら「大したことないから、無罪でいいんじゃねえの」という意味じゃないかな。ビラ撒きだったら、どの程度なんでしょうね。ちょっと聞いてみたいところです。

この八十年代の著作からうかがえる限りでは、当時の前田氏は特に厳罰主義者ではなさそうだし、形式的な必罰主義とは遠く離れています。彼のその後の理論の特色も、別の場所に求めるべきだとぼくは考えます。

(長くなるので一旦ここで切ります。青木)
posted by aoki at 13:06| Comment(3) | TrackBack(1) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして♪いきなりコメントすみません><;面白かったですっ・・・また来ますっ><
Posted by RINA☆ at 2006年05月18日 01:28
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Posted by 失礼します。 at 2006年05月18日 03:43
記事の本文からだけだと、『可罰的違法性論の研究』の論点がはっきりしないし、誤解を与えかねないと考えて、ここで少し補足します。可罰的違法性(処罰に値する違法性)に関する従来の学説に対しての前田氏の主張は、以下のようになります。

1、従来の多数説が採用している違法一元論を否定し、刑法に固有の違法性概念を構成すべきである(「違法の相対性」)。したがって、違法一元論を前提とした可罰的違法性の概念は不要である。

2、具体的な処罰範囲の限定としては、絶対的軽微性を実質的構成要件解釈に、相対的軽微性を実質的違法阻却事由に解消することができる。こうすることで、超法規的可罰的違法粗却の領域を観念的に想定するよりも、判断基準を実践的に機能性の高いものにすることができる。その際、犯罪類型ごとの具体的な基準を設定する。

3、社会的相対性論に関して言えば、「社会の複雑化が行為無価値中心の違法論を導く」という考えは批判される。違法性は客観的事情を基礎に判断されるべきである。
Posted by 青木純一 at 2006年05月18日 06:00
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Excerpt: 判例判例(はんれい)とは、特定の裁判において裁判所が示した法律的判断である。講学上は最高裁判所によってなされたもののみを判例とよび、下級裁判所によるものは裁判例として区別することもある。厳密な意味では..
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Tracked: 2006-05-17 18:40
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