2006年05月09日

法の外(3)

今回はちょっと脱線します。ぼくはもともと政治や社会事象が得意のフィールドではないので、そろそろ文学についても少し話したくなってきました。

以前、ガタリか誰かの本の中で、エベレストで死ぬひとの半分くらいが日本人だ、という話を読んだ記憶があります。本当かどうか確かめたわけではないのですが、妙に納得しました。というのは、その当時からぼくは日本人の法意識、というか「法」というものへの感受性について大きな関心があったからです。この問題は、ぼくの中でまだ全然決着はついてません。ひとまず想定しているのは、日本人の民族的な心性の奥には、「自分の命を捨ててでも守るべき『法』が存在する」という感覚が根強く残っているのではないか、ということです。ぼくはこの感覚を一概に批判したくはありません。むしろ、歴史的な心の問題として、強い興味を抱きます。ただ、政治的に利用されやすい心性だとは思います。

日本の作家の中で特に「法」への感受性が鋭いのは、森鴎外と三島由紀夫です。二人とも官僚経験者というのも面白い。晩年の境地(鴎外の史伝、三島の革命行動)が難しいのも共通してます。この二人の作家は、「法」への感受性が鋭いだけに、「法の外」についても鋭い感覚を持っていました。というか、「法の外」の状況を見事にヴィジョン化することのできた作家でした。さらに二人に共通して言えるのは、「法」を重んじる思考の裏側に実は強烈なアナーキズムを秘めていることです。この二人の作家の「法の外」のヴィジョンの根底にはアナーキーな欲望があり、さらにそれが翻って「法」への思考を変容してゆきます。鴎外と三島は、「法」と「法の外」との間のこの緊張関係に生きた作家だったと思います。

ですから、ぼくが「法の外」という言葉を使うとき、実は否定的な意味ばかりを考えているわけではありません。むしろ、メディアや行政が投げつける「不審者」や「犯罪予備軍」という言葉が言外に含んでいる「法の外」という幻想を逆手にとって、(たとえばそれを「無所属の寄生者」と翻訳することで)、「法」をめぐって何か新しい戦略を思い付けないかと考えているわけです。まだ試行錯誤ですけどね。ただ、三島がやったような自爆テロ的な革命行動は考えてませんよ。そんなことしたら、それこそ『阿部一族』や『大塩平八郎』の悲劇の再現です。重要なことは、「法の外」をポジティブに捉えるためには、まずこの幻想の共同性を無化する必要があることです。ひとまず、個人個人が極私的に頭の中で「法の外」という観念のパロディーを作るところから始めるといいと考えています。そういう場合、すぐれた文学は参考になります。

「法の外」、英語で言ったらアウトロー(outlaw)、ちょっとかっこいいですね。でも、昔は「アウトロー」を殺しても罪にはならなかったらしいですね。辞書にそう書いてあります。ドイツ語にはさらに面白い「フォーゲルフライ(vogelfrei)」という言葉があります。「法の保護を奪われた、法益をはく奪された」という意味ですが、単語そのものを直訳すると「鳥の自由」です。ニーチェには「プリンツ・フォーゲルフライ」という詩があります(「プリンツ」は王子の意味です)。『メッシーナ牧歌』に入っています。ニーチェは自分を「フォーゲルフライ」な者、すなわち「法の外」にいる者、そして鳥のように自由な思想家と考えていたのでしょう。好きな詩なので、冒頭の二連を引用します。

「こうしておれは曲がった木の枝にとまり/はるかな海や丘陵を見おろしている。/一羽の鳥がおれを賓客として招いてくれた。/そのあとについておれは飛びに飛び、また休み、/小さな羽をしきりと動かした。
白い海はまどろんでいる。/おれはすべての悲哀と嘆息を忘れた。/目標も、寄港地も忘れた。/恐怖も賞讃も刑罰も忘れた。/いまではどんな鳥のあとでも追っていく。」(氷上英廣訳)

現代作家だと多和田葉子さんが、鴎外や三島とはまた違った意味で、「法」に対する感覚が鋭いです。最近の作家の中では、ちょっと珍しいタイプです。ぼくは多和田さんの作品が大好きで、今後の日本文学はこのひとの思考をどんどん吸収したらいいと思うのですが、これはいささか厳しい注文かもしれない。多和田さんの作品は、従来の日本文学の枠にはおさまらない異質な要素をたくさん含んでいますから。でも、「法の外」という共同観念をパロディーにするには、このひとの作品は格好の手本になります。たとえば、『変身のためのオピウム』という小説の冒頭近くに、こんな文章があります。

「前から問題になっていた新しい法案がついに可決され、下半身の治療については保険がきかないことになった。これからは下半身の器官を上半身に移植する手術が増えるだろう、とラジオで社会情勢評論家が言っていた。」(一)

いきなりかましてくれます。わけわからん強引な法案に対して、これまたむちゃな移植手術によって応対するわけです。いろんなイメージが湧いてくる文章です。基本的に多和田さんの作品では、法に適したものと違法なものとが相互にくるくる転化して、しまいには「合法性」が宙吊りになっちゃう世界が描き出されています。こんな文章もあります。

「膣から頭髪の分け目まで、身体を貫いて、毎秒一本の管が伸びる。それは、解剖学者たちが色分けした内臓を押し込んだあの身体ではない。毎日、鏡に映るあの身体でもない。毎月、生命保険会社が売りつけにくるあの身体でもない。それにしても、たくさんの身体が次々配達されてくるものだ。いったい、いくつ身体を引き受けろと言うのだろう。中には、未登録の身体もある。たとえエロスに満たされていても、性行為には不便な身体もある。そういう身体は法に反しているのかもしれないが、目に見えないので罰せられることもない。」(四)

この「未登録の身体」のイメージなんて、「法の外」の見事なパロディーになってます。どことなく「無所属の寄生者」にも似てるでしょ。どことなく、ですけど。この方向で、「法の外」という幻想領域の共同性を無化していければ、きっと面白いはずです。それにしても「たとえエロスに満たされていても、性行為には不便な身体」って、どんな身体なんでしょう。ドラえもんみたいなやつかな。想像がふくらみます。

現在、日本の文学も岐路に立っています。個々の作家が政治や社会について発言する必要は必ずしもありませんが、あまり現状に甘えていたら、小説を中心とした文学が、池田さんの言うように、現実を見えなくさせるためのシールドになってしまう危険は確かにあるのです。ただ、危機の時代は、新たな活路が見つかる可能性の時代でもあります。文学も今が正念場、ふんばりどころです。その際、「読書」が変わることも文学が進化する重要な要素です。というか、本当は「読書」が変わることが、文学が変わる一番の近道です。文学を作家や批評家が主導するものと考える理由なんか、どこにもありません。そこで、今一番「読書」に対して刺激的かつ挑発的な多和田さんの作品の文章を引用してみました。

ここから先、じっくり考えたいことが多いので、ぼくの記事の更新のペースは多少遅くなると思います。どうか御容赦下さい。次回からは「学問から解き放たれてゆく権力」というテーマで記事を書いてゆく予定でいます。
posted by aoki at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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