2006年05月05日

法の外(2)

一体この数年の間で、日本では何万人にひとが自殺したのだろう、さらにその記憶に苦しんでいるひとは何倍になるだろうと考えると、暗く深い穴の縁に立って自分も落っこっちゃいそうな気分になります。ぼくも生活が苦しいし、最近は頻繁にボーッとするし、自分の限界みたいなことを痛切に感じます(年齢のせいもあるけどさ)。以前ぼくは、自殺者の多い昨今の状況を「非常時」と書いたことがあります。「非常時」という言葉は小林秀雄から借りたんですけど、ちょっと意味をずらして使ってみたわけです。この点に関して想像力のない政治家も学者も、ぼくは信用しません。何が少子化対策だ、バカヤロー。

鬱病や境界例と言われるような現在の精神の病いの多くは、社会構造の変化にともなう「公害」と言っていいでしょう。個人の問題以上に、社会総体の問題です。余談になるけど、実はぼくは早稲田の大学院に長いこと在籍していて、大学院の雰囲気はよく知っているのですが、マジメな院生は精神的に苦しみますね。ぼくはクソ生意気な不良でしたから、精神的にはあまり苦しまなかった。アトピーがひどかったけど。それはともかく、なんらかの組織の内部で生きる人間にとって、その組織の変化は否応なく心に作用します。そして、日本人は否応なく日本の社会組織の内部で生きてます。この二十年来の社会の変化は、多くの市民にとって「戦争」といっていいほどきつかったし、死者を大量に出し、今も出しています。このことをぼくは絶対に忘れないつもりでいます。

そこにきて、近頃の政治家たちの「格差」容認発言です。彼らの発言は、一見、資本主義内部でのダイナミズムについて語っているように響くかもしれませんが、それは仮装で、本音は違うとぼくは自分勝手に解釈してます。あれは、社会の階層化に本格的に着手するぞ、という脅迫みたいなもんです。ぼくは「格差」の意味を、経済的な「階級」よりも政治的な「階層」として捉えています。そして、なぜ階層化という脅しが必要かと言えば、第一の理由は管理の効率化です。

管理のシステムが大きく変わる場合の最大の理由は、従来のシステムでは効率的に高くつき過ぎてしまうという、実にプラグマティックなものです。職種も多様、家族形態も多様、性行動も多様、しかも個人が日常の場面で多チャンネル的にライフスタイルを変換する現在の世の中では、行動の規律とか精神的陶冶といった管理の仕方では、もういくら税金を注ぎこんでも足りないし、空砲に終る可能性のほうが大きい。監視のシステムは急速に発展しつつありますが、ウィニー騒動に見られるように、情報テクノロジーの進化はいまだ突然変異的で、監視する者が監視(のぞき見)されちゃったという逆効果も生じています。これじゃパノプティスム(一望監視方式)すら成り立ちません。そこで、社会の中に一定の階層の閾(しきい)をあらかじめ設けておいて、その内部にいれば法的な保護や福祉の対象になるけど、その閾から一歩外へ踏み出したら、もう「法の外」だぞ、どうなっても知らないぞ、という極めてシンプルな幻想の一線を引くことで、まずそこからなんとか効率的な管理の仕方を権力は作り出そうとするわけです。早稲田大学の一連の対応も、こうした管理の仕方を野暮ったいほど露骨に真似しています。

「法の外」という幻想が、幻想とはいえ恐ろしいのは、「法の外」にいる人間に対しては何をしても構わない、つまり適法か違法かなんて考えないでどんな行動や処分に出てもいいという感受性を導くことです。「法の外」では、合法性について考えないですむからです。この瞬間に、権力は「法の外」にリアルに逸脱します(ここは重要なので、別稿でもう一度考えます)。ところで、スポーツが戦争のシミュレーションの一面を持つように、犯罪は社会管理のシミュレーションの一面を持ちますが、最近の犯罪者たちはこの「法の外」という幻想を治安権力と共有している感があります。同じ感受性、あるいはシミュレートされた感受性です。私たちは、犯罪からも社会について学ぶことができます。

で、格差容認発言に戻りますが、あれは幻想の階層化を実体化しようという作戦、要するに「現実に『法の外』に置かれるべき階層が存在する」という合意を、行政能力をフルに行使して作り出そうとする高度な(というかサイテーな)政治判断の表現ではないでしょうか。しかも、メディアがこの数年一生懸命に煽ってくれたおかげで、こうした「法の外」の階層をイメージすることは実に容易になりました。「フリーター」から「ニート」への一連のイメージの流れがそれです。これらの言葉がメディアに登場したとき、そこには必ず「社会の寄生虫」、ろくに働かないで社会に寄生しているやつら、というイメージがくっついていました。この十年、若者にろくに就職口も与えなかったくせに何をぬかすか、という気がします。それにもともと社会というものは、寄生虫の寄り集まりみたいなもんです。資本家は労働力に寄生し、近代国家は資本主義に寄生して、ラクな生き方を見つけたのです。なのに、なぜ「ニート」のイメージが階層化の核になるかと言うと、行政側から見て「ニート」があまりに「無所属」だからでしょう。会社中心主義で市民社会を編成してきた戦後の行政は、組織への「所属性」を拠り所にして管理・徴税・福祉・教育といった政策を実行してきました。日本の行政は、まだこの方式を捨て切れていません。学者も同様です(しかも派閥や党派性が大好きな連中です)。こういう社会では、片岡義男さんが『日本語の外へ』で指摘されたように、言葉も「所属性」を基盤にして成長します。戦後の日本語は、所属のための言葉です。

しかし近年になって、経済のレベルで現実として会社が市民社会の核であることを放棄し始めた途端、政治は社会の輪郭を見失ってしまったようです。そしてその際、会社に(あるいは組織一般に)所属しないひとは、行政にとってあまりに無表情で、言葉も届かない存在として、いわば行政みずからの「影」として浮かび上がってきます。おそらく「ニート」のイメージに投影されているのは、この「影」であり、行政自身の視力の無能さです。政治はこの「影」におびえています。行政やメディアや大学当局が投げかける「不審者」という言葉は、意訳すれば、「所属が審らかではない者」という意味を持っています。そして「所属が審らかではない者」は、現在の政治にとって「言葉の通じない者」、何を言ってもわからない者でもあります。言葉が通じなければ、内面もわからないから、矯正や陶冶の対象にもなりません。だから一旦「法の外」へ追放するという身振りで応対せざるをえなくなったのではないか。ある意味、行政としては捨て身で苦肉の策ではあります。なぜなら、「国民個人個人の人格の掌握」という統治の重要な拠点を放棄したに等しいのですから。「ニート」とは、政治にとっての「非人格」「非人間」を意味します。そして、一旦生まれてしまったこの「非人格」のカテゴリーには、実際のニート以外の多様なひとびとを投げ込むことができます。人格を掌握する必要を政治が放棄したから、「不審者」は誰でもここに含まれることになっちゃうわけです。(「不審者」「犯罪予備軍」といった言葉にはまた別のイメージのつながりもあります。これも後に考えたいです。)

また余談になりますが、日本の近代文学史上最高の「ニート」、つまり「無所属の寄生者」は、『吾輩は猫である』のあの無名の「猫」だとぼくは思っています。「先生」の家に寄生しながら、家族に所属しようとはしません。だから、ずっと名無しのままでも平気。そして、堂々と人間の営みを批判してゆきます。漱石の作品にはよく「無所属の寄生者」が登場しますが、一貫して言えることは、それらの登場人物(動物)は極めて鋭敏な近代の批評家であることです。漱石自身、実生活において、組織に所属することに対して警戒し続けていました。大学もやめて、後に博士号も拒否しつつ、新聞に寄生して書き続けました。彼の神経症的な要素は、「安易に所属してたまるか」という強い意志の反動に見えます。社会の真の批評家であるためには、所属への警戒を怠ってはならない、と彼は考えていたはずです。だからぼくは、もし本物の「ニート」が出現したら、そいつはきっと相当なつわものだと思います。「ニート」、すなわち「無所属の寄生者」は、その存在において、現代の鋭敏な批評家になります。だからなおさら、行政は「ニート」(のイメージ)を階層化のターゲットにしたがるのです。
posted by aoki at 17:35| Comment(3) | TrackBack(0) | 青木 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、いわれてみれば最後のパラグラフで論旨がずれているような気が……。

「所属が審らかではない者」や「無所属の寄生者」を法の外に排除する。その際に「ニート」というバッファ、わかりやすくいえばMacなどについている「ゴミ箱」のような階層に排除し、必要とあらばそこから労働力を一本釣り、面倒なようなら「一括消去!」という話ですよね。

そうなると、漱石の「猫」が「ニート」だと言ってしまうのは、ちょっとまずいのでは。つまり「ニート」という言葉は、そこに無所属なものを入れておくべき「ゴミ箱」にもかかわらず、それが「猫」とか「モブ・ノリオ」というような仮象をまとってしまうと、なんというか本来ゴミ箱にすぎないはずの「ニート」が、なにやら文化的に素敵なものにみえてしまう。このような「ルアー効果」は、創作系の専修などで教えいると、どうしても考えてしまいまうんですけど、どうでしょう?

もっとも「アルバイト」や「非常勤講師」などをしていると、どうしても「猫」的な視点にたたざるを得ないのも事実ですが……。

Posted by 池田 at 2006年05月06日 22:51
コメント、ありがとう。助かります。

「猫」を「ニート」として援用したのは、これから先の論旨で、現在の統治が生み出す「法の外」という幻想を逆手にとって、その共同性を無化しつつ、あえて「法の外」をめぐる新しいイメージからも「法」と人権や主権について何か新しい考え方が出てこないかなあ、例えば「当事者主権」という考え方をさらに深められないかなあ、というぼくの両面戦略に関係してます。これについては、「法の外」のパロディー化として、次の稿でまず簡単に触れる予定です。

でも、池田さんの指摘には重要な観点が含まれています。というのは、なぜ(主に)文学部が、今後社会において「『法の外』へ追放されるぞ」と脅されかねない「無所属の寄生者」を量産しようとしているのか、その理由がぼくにもまだ明確じゃないのです。

というのも、「法の外」という幻想の背景にある(とぼくが仮定する)根拠、つまり政治が「人格」の掌握を一旦放棄した結果権力の編み目の中に生まれてしまった「非人格」という穴ぼこは、実は行政の側にとっても極めて危険な穴ぼこだと思うんですよね。もともと行政の能力の限界で生じたカテゴリーだし。この穴は、統治の不可能性をも証してしまうんです。だから行政はこの穴を、なんらかの仕方で新たなシステムに編成する必要があるはずです。大学も同様なはずです。

おそらく統治する側は、今後市民を「人格」としてではなく、様々な記号やレッテルの寄せ集めとして掌握するシステムを繊細化すると予想はできます。その際、一旦生じた「非人格」という穴ぼこはどう変容していくのか。文学部の問題は、この変化のプロセスにおけるひとつの模索ではないか。したがって、文学部が創作系の学生をどういう「主体」あるいは「階層」として構成しようとしているのかがわかれば、統治の機構の変化についても多少わかるところがあるはずです。

ただ、どのようにシステムが再編成されるにせよ、行政が市民を「非人格的に」記号として登録してゆく手法は継続すると思います。政治は「人間(人格)」を放棄しつつある、というのがぼくの仮説です(司法もこの方向で変容し強化されると考えられるので、あえて「法の外」にこだわるわけです)。そして、その途上で極めて乱暴で杜撰な管理が行われる可能性がある。というか、現在がそうだと考えます。一旦、生じた「非人格」の穴ぼこには、原則的には誰でも放り込むことができます。今のところ、デモやビラで権利を訴えるひとに杜撰な管理の目が集中的に向けられていますが、これまでに確保されてきたマイノリティの権利さえ、また危うくなるでしょう。あるいは、若年層全体が本当のターゲットかもしれないです。

あまり答えになってないかもしれないけど、まあ本文の補遺みたいな感じで読んで下さい。またね。
Posted by 青木純一 at 2006年05月07日 00:40
ちなみに「当事者主権」といのは、上野千鶴子と中西正司による『当事者主権』(岩波新書)からとってます。これををみた池田が「この概念をつかって、ブログであれこれやれるのではないか」というようなことを、新宿の「天狗」で青木さんに言ったのです。

この「あれこれ」については、そのうちエントリーする予定です。

Posted by 池田 at 2006年05月08日 01:41
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